放鷹に関する職制

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江戸幕府の放鷹に関する職制には鷹匠(たかじょう)と鳥見(とりみ)の二系統があった。寛永五年の鷹場設定にあたって黒印の木札をもった四名の鷹頭(たかがしら)にのみしか放鷹を許されなかったことは先述のとおりだが、鷹頭とは鷹匠頭のことである。鷹匠の勤めるところを鷹部屋といい本郷弓町にあったが、享保二年(一七一七)以降は雑司ケ谷(ぞうしがや)と千駄木町とに移された。またかれらの住む町が鷹匠町で寛永二年(一六二五)の旗本屋敷割のときに神田小川町に鷹匠町がつくられた。

 鷹匠の仕事は放鷹のための鷹の飼育や訓練にあたるとともに、鷹場の村々を泊まり歩いて鷹場の監視や鷹の訓練をすることであった。また鷹の補充のため諸国を歩いて巣鷹を探すこともその任務の一つであった。鷹匠の頭を鷹匠頭というが、その下に鷹匠・犬牽(いぬひき)頭・犬牽・餌差(えさし)などが配置されていた。犬は狩場で獲物を追い出すために使われるもので、犬部屋で犬牽に飼育されていた。餌差というのは鷹にあたえる生餌を集めて鷹を飼育するのがその役目であり、本郷餌差町がその居住地であった。もっとも鷹の生餌につかうけら虫・みみずなどは餌差が直接採取するのではなく、江戸周辺の村々から上納させるので、文化八年(一八一一)の「下大崎村御用留」によると、大井村・下蛇窪村・二日五日市村・上蛇窪村・戸越村・桐ケ谷村・上大崎村・下大崎村・居木橋村の九ヵ村から、けら虫を二万二五〇〇匹捕えて納入している(五八〇ページ参照)。

 鷹匠が鷹に関することをあつかうのにたいし、鷹場の管理にあたるのが鳥見である。鳥見が職制として制度化されたのは鷹匠同様寛永年間で、同二十年(一六四三)九月に一〇名の鳥見がおかれている。鳥見の職務は鷹場村々を巡廻して、野鳥の繁殖状況や鷹場の整理状況などを調べ、将軍の放鷹が近づくと餌をまいて野鳥を集めるなどをした。しかしこれは表面の仕事で、江戸近郊に散在する諸大名の下屋敷・抱屋敷などを、野鳥の状況を調べることにことよせて探索する役目をもっていたといわれる。

 将軍の放鷹は五代綱吉の〝生類憐みの令〟と関連して中止された。元禄六年(一六九三)九月に幕府は放鷹を廃止、鷹部屋にかわれていた鷹は全部伊豆の新島に放され、ついで鷹匠・鳥見の役も廃止された。また鷹匠町は小川町に、餌差町は富坂町と町名が改められた。

 しかし享保元年(一七一六)に紀州藩より徳川吉宗が入って将軍となるや事態は一変した。吉宗は

    上(将軍)のおすきなもの

           御鷹野と下の難儀

といわれたように(『享保世話』)、鷹狩がたいへん好きで、元禄時代以来廃止されていた鷹野の制度を次々に復活し、さらにいっそうそれを整備した。

 享保元年廃止されていた旧鷹場をあらためて留野にして鷹場にするとともに、鷹匠・鳥見の制を復活した。まず江戸周辺約五里の範囲を六筋にわけてその管理体制をきびしくした。六筋というのは葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・目黒筋・品川筋の六つであった。この筋には各々天領・大名領・旗本領・寺社領などが入組んだ形で混在していたが、それを一つの鷹場組合として組織し、管理するところに六筋の組織の特徴があった。

 再置された鳥見職は目黒掛り・品川掛りというように各筋を分掌担当するとともに、御在宅御鳥見といって上目黒村・東大森村・志村・亀有村・東小松村・上中里村・高円寺村の七ヵ所に一名づつ役宅を構えるものも新設された。かれらはたえず鷹場に目を光らせてその管理に注意するとともに、鷹場内の家作の新築や増築、さらに水車仕立などの許可願、御成筋および屋敷改、掛り場の農家の屋根葺替えの届出、立木伐採の許可願、代官・地頭の交替届はもちろん、代官が自分の家作をする場合にも鳥見に届出なければならぬなどの新たな権限が、この享保の復活のときに追加されたため、いわば江戸近郊約五里の間は六筋に分かれて鳥見による統一支配の途がひらかれたといえよう。

 しかし問題がなかったというわけではない。というのは鳥見など鷹場組織の職員の権限がたいへん強大なものであったので、かれらの鷹場内の武家・農民に対する態度はたいへん強圧的で目に余るようになり、なかには酒食や金品を強要したり、公務以外の宿泊や接待を無理強いして、人々を困らせるものもいた。このため幕末近くなると幕府は無宿や博徒のほかに、このような無法鷹場役人の取締りにも気をくばらざるを得なくなった。

 文政十年の組合村設置に先立って幕府はこの鷹場組織を活用して村々の治安維持に役立たせようと試みたふしがある。というのは下蛇窪村の文政十年九月の「関東向御取締御改革ニ付被仰渡候趣御請連印帳」(「伊藤家文書」)をみると、文政十年の前記組合議定書の前に、文政五年八月の「御鷹場御法度手形之事」七ヵ条、「差上申海辺手形之事」三ヵ条、「差上ケ申御法度手形之事」三ヵ条、「差上申一札之事」四ヵ条、「差上申一札之事」九ヵ条をのせている。これらはいずれも鷹場の諸規則を拡大することで、域内の治安維持をねらっている。しかし鷹場組合を通しての問題解決には限度があったのであろう、結局文政十年に組合村設定にふみ切るのである。