この雛形にもとづく書上げ「地震災ニ付破損家怪我人其外取調書上帳」(「伊藤家文書」)が大森寄場組合分についてあるので、被害の有無(雛形(2)(3)(4))についてのみ記しておく。
東大森村 破損家四拾壱軒
土蔵大破二五ケ所
即死人壱人 薬買に行って江戸で圧死
怪我人壱人 とび出したところに瓦がおちてきて足に怪我
百姓貯穀詰蔵大破損
西大森村 破損家三拾弐軒
土蔵大破拾弐ケ所
北大森村 破損家三拾五軒
土蔵破損九ケ所
不入斗村 破損家弐拾軒
土蔵破損弐ケ所
下袋村 破損家四軒
嶺村 破損家拾壱軒
土蔵破損弐ケ所
新井宿村 破損家五軒
土蔵大破八ケ所
即死一人(女) 但し江戸奉行先で圧死
市野倉村 破損家三軒
大破損家壱軒
土蔵全潰壱ケ所
長屋門半潰壱ケ所
久ケ原村 破損家三軒
土蔵破損五ケ所
北蒲田村 破損家十二軒
土蔵破損八ケ所
女塚村 潰家壱軒
破損家弐軒
土蔵破損三ケ所
御薗村 被害なし
道塚村 土蔵破損一ケ所
馬込村 潰家一軒
破損家八十六軒
土蔵破損三ケ所
桐ケ谷村 破損家一軒
池上村 破損家二軒
下池上村 潰家一軒
破損家九軒
土蔵破損三ケ所
死人一人(女)
怪我人一人(女)
道々橋村 被害なし
雪ケ谷村 土蔵破損五ケ所
中延村 全潰一軒
破損家二軒
土蔵破損五ケ所
碑文谷村 破損家一軒
小山村 破損家弐拾軒
土蔵破損一ケ所
上目黒村 土蔵破損七ケ所
大井村 被害なし
下蛇窪村 土蔵小破損一ケ所
上蛇窪村 被害なし
戸越村 被害なし
谷山村 半潰家一軒
上大崎村 被害なし
下大崎村 被害なし
居木橋村 被害なし
二日五日市村 被害なし(?)
下高輪町 潰家拾軒
破損二拾五軒
土蔵破損三ケ所
今里村 被害なし
三田村 被害なし
白金村 被害なし
以上である。また品川宿については十月五日付で三宿名主より差し出した報告書がある。それによると
家数千六百九拾壱軒
半潰家 拾四軒
大破家 千四百廿弐軒
同本陣 壱軒
同本陣 弐軒
同旅籠屋 九拾弐軒
同土蔵 弐百拾七ケ所
同問屋場 壱ケ所
小破家 百六拾軒
とあって本陣以下問屋場までが大破家になるのかどうか若干意味がとりにくいが、その後書に「右者当月二日夜四時頃大地震にて、宿内往還通り家並、其外惣体大破相成候……」とあるところから、被害がかなり大きかったことは疑いないようである。ただし「地震のとき怪我をした者は多いが、それらはたいしたことがなくて、人命にかかわるほどの者は一人もない」とあるから人間の被害は僅少であったようである。これは代官支配地についてであるが、支配がちがう寺社門前地では、北品川善福寺門前と、南品川妙国寺門前地とで男女四人の死者があったようである(『品川町史』中巻五五八ページ)。
これをみると品川宿については江戸町場に近い大きな被害があったようであるが、それをのぞくと、ここにあげた地域の被害がいちじるしく少いのが目だつ。しかしここにあげた地域でも被害が全くなかったわけではなく、死人までなかったにしても、家屋の被害がかなり見られるところもある。
被害の目立つところは東大森村・西大森村・北大森村・不入斗村・下袋村・嶺村・新井宿村・市野倉村・久ケ原村・北蒲田村・女塚村・馬込村・下池上村・中延村・小山村などで、これにたいして大井村、上蛇窪村・戸越村・上大崎村・下大崎村・居木橋村、二日五日市村などは全く被害なしである。これを見ると河川下流のデルタ地帯とか、低湿地帯が多くの被害を出し、台地上の村々は被害皆無か、あるいはそれに近い状況を示している。ともあれ、品川宿を除く品川区地域村々に地震の被害が少なかったのは幸いである。