武州一揆

512 ~ 513

徳川幕府が亡びる一年前、慶応二年(一八六六)六月に、将軍のおひざもとである武州には、三〇〇年来例のなかった大一揆がおきている。これを武州一揆という。一揆の大要は次のようである。安政の開港以来関東一円は従来にも増した物価高になやまされていたが、そのうえ元治元年の第一次長州征伐、慶応二年の第二次長州征伐はさらにそれに拍車を加えた。そのため関東農村の細民達はその日の生活にも困るというぎりぎりの線までおいこまれた。とりわけ耕地をほとんど持たず、したがって自給度の少ない山間部の住民の困りようは甚だしく、ついに「村民農間の稼には炭焼或は木挽……筏流しをするものもあり、女は農産の外絹太織を織」って辛うじて生きているといった状態の武州秩父郡名栗村・多摩郡成木郷の人々がたまりかねて六月十四日あけがた立ち上がり、入間郡飯能宿の米屋など五軒をうちこわした。

 条件は充分ととのっていたので、これが忽ち周辺にひろがり、山間から平場地帯へと一揆はひろがって、あっという間に武州一円に伝播し、武州七郡・上州二郡に及ぶ大一揆となった。

 かれらは十四日中に高麗・扇町谷・所沢などをおそったのち数隊に分かれ、十五日には川越・大和田方面の一隊は江戸近郊まで迫る勢を示したが、川越藩兵・田無農兵隊と闘って退き散った。一方坂戸に向った一隊は同所をうちこわし、十六日には松山から小川・寄居までの入間・比企・男衾三郡三〇余町村を一揆にまきこみ、寄居で隊を二手に分けて一隊は児玉郡を経て上州に入り、十八日に利根川べりの藤岡町・新町あたりで関東郡代・忍・岩槻・高崎の連合軍と闘って潰滅。一隊は荒川沿いに進み十八日には秩父大宮町に進み、忍藩の代官所をおそい大小砲・公文書・陣屋建物・牢屋などを破壊したり焼捨てたりした。多磨郡では十五日に青梅をうちこわし、十六日に五日市・箱根ケ崎・福生を経て八王子にぬける途中、拝島で農兵隊と衝突して敗走、また別動隊も八王子の近在で八王子千人同心、駒木野・日野の農兵隊に阻止されて一揆隊は潰れ去った。

 参加人員は総員一〇万をこすといわれ、その構成は日雇・職人・借屋・召仕・下男といった貧農・前期的賃労働者層が主体となったが、そのなかには名主・組頭層など村落指導者層も加わっており、打毀しの対象は質屋・米屋・生糸会所・酒屋・油屋・炭屋などの商人層が中心で、さらに地主層にまで及んだ。また甲州街道布田の打毀しが横浜表を襲撃するとの噂もとび、神奈川奉行をあわてさす場面もあった。

 東京都公文書舘所蔵、「藤岡屋日記」(藤岡屋は江戸神田の書肆)の記事によると川越藩領での一揆の被害は、うちこわされた家数九四軒、土蔵一三四ヵ所、物置二五ヵ所となっており、別に生捕人一〇八名、即死二名とみえている。

 ともあれ江戸周辺の村々でおこった大一揆であるために幕府の受けたショックも大変なもので、品川方面村々に対しても関東御取締出役より「容易ならざる事件の廻状であるから、一刻も遅滞なく時間を記入して順達するように=不容易一条之廻状ニ付片時無滞刻付を以御順達可被成候已上」という注釈のついた次のような廻状がまわされている(「伊藤家文書」)。