一揆に関する急廻状

513 ~ 514

この急廻状の内容は一揆の実勢動向を示した部分と、情報の入手方法および、一揆軍が当地区(品川区域村々)にもやってくるかも知れぬので、それに対する充分な対応策を考えておくべきこと、および小前末々の百姓まで充分目をくばって動揺がないよう村々で配慮すべきことを命じた三つの部分よりなっている。

 まず情報入手の方法であるが、一揆がおこってから二日目の十五日(六月)の夜に溝口村から府中に情報入手に人を派遣し、それが府中宿が情報入手のため各地に派遣していた人々がかえってきた結果の情報を整理したものをもらって来たものを、溝口村がその所属寄場である綱嶋村に報告、綱嶋から隣接寄場の大森に急報してよこしたものである。大森寄場より所属村々にこの情報が通報されたのは十六日夜である。したがってここで提供されている一揆の実勢および動向は十五日の午後のものが主体と考えられる。急廻状が提供している一揆情報は次のようである。

一、一揆軍(廻状では一揆軍のことを乱妨人と呼んでいる)およそ四、四〇〇人ほどが十三日、秩父領なごり谷(名栗谷)より出てきて、同日飯能を打毀す。

一、十四日扇町屋を五軒打毀す。

一、同日所沢を一六軒こわす。

一、同夜一揆軍が所沢に泊まったかどうかは不明である。

一、四、四〇〇人の一揆軍は昨十五日に三手に分かれ、川越へおしかけてあちこちを打毀し、また所沢へ立戻って十五日には所沢に泊まった。

一、六〇〇人は昨十五日朝入間川にむけて進んでいるとのこと。

一、三、〇〇〇人の一揆軍が川越より立戻って昨夜所沢に止宿したが、かれらは今日十六日府中宿布田あたりより川の手前に移り、横浜へ向けて進んでいるとのことである。

一、一揆軍は鉄砲四〇挺そのほかの武器をもっている。ただし長筒は持っていないとのことである。

 以上であるが、廻状の最末尾に「一揆軍が溝口村に対して弁当を四、〇〇〇人分ほど申しつけて来たとの風聞である」との最新情報なるものが付記されている。