薩摩藩邸焼討事件

515 ~ 517

慶応三年(一八六七)十二月二十五日の明けがた、江戸三田にある薩摩・佐土原両藩邸を庄内藩を中心とした幕府方の軍隊がおそって焼討ちした事件を薩摩藩邸焼討事件という。

 慶応三年十月十四日徳川慶喜は大政奉還を願い出て翌日許可され、ここに徳川三〇〇年の政治は終わった。この事件は同年九月十八日に薩長芸三藩の挙兵討幕の約束ができ、同十月十三日に薩摩藩に討幕の密勅が、さらに翌十四日には長州藩に同様密勅が降って、幕府の徹底的討伐を計画していた薩長討幕派に肩すかしをくわせる形になった。

 しかし薩長の討幕派はなお初志をかえず、西郷隆盛の建策にしたがって積極的に討幕の機会をつくり出そうと画策した。すなわち益満休之助・伊牟田尚平を江戸に派遣して関東甲信の志士や浪士を集めさせ、これを三田薩摩屋敷にかくまって、江戸および関東一円の治安を乱させ幕府を挑発する策にでた。当時三田の藩邸はほとんどの人々が引払い、留守居役として篠崎彦十郎がいたが、かれは西郷の意をうけて積極的にこの策に働いたようである。

 このとき集まった人は相良総三(小島四郎)・落合源一郎(直亮、国文学者として有名な落合直文はその養子)・権田直助・小川嘉助・斎藤養斎・渋谷謹三郎(総司)など五〇〇余名であった。かれらはこの人数を組織して次のように指導者を決めている。

  総裁(総監)     相良総三(小島四郎)

  副総裁        水原二郎(落合源一郎)

  大監察        苅田積穂(権田直助)

   〃         長谷川鉄之進

   〃         科野東一郎(斎藤謙助)

  監察         会沢元輔

   〃         山本鼎(西村謙吾)

   〃         菊池斉(朽内蔵四郎)

   〃         大樹四郎(大木匡)

   〃         小川香魚(小川勝次郎)

  輜重長        桜国輔(原三郎)

  使番         大谷総司(渋谷謹三郎)

   〃         金田源一郎(宗佐美庄五郎)

   〃         大原廉之助(竹内廉之助)

 ただしこの人名は関係者がほとんど死んでしまって、維新の盛世を見る人がなかったため正確とはいい難い。生き残り、しかも新政権のもとで一応の陽の目を見た唯一の人ともいえる落合源一郎は、かなり詳しい人名録を作っていたといわれるのだが、かれも薩摩藩邸焼討ちにあい、三田から品川方面に逃げるときに、その名簿を失ってしまったというので、わからぬ事の方が遥かに多い。

 ともあれ浪士たちを隊に組織し、一つには野州で討幕の兵をあげて江戸から東北へ行く口許を押へ、一つには甲府城を攻略し甲信方面への口許をおさえ、一つには相州方面を騒がせて東海道筋を側面からおさえ、同時に江戸に残った面々はできる限りの乱暴狼藉を働いて幕府を挑発して討幕の口実をつかむという基本方針をたてた。

 これらの計画はかなり強引に実行に移され、また江戸市中の混乱もひどく、とくに十二月二十三日の江戸城二ノ丸の炎上も薩摩屋敷の浪人の所為との風説がたち、幕府側でももうこれ以上我慢がならぬとする者が多くなってきた。そんなときに薩摩屋敷の浪士が、府内取締りの任にある三田同朋町の庄内藩巡邏兵屯所に発砲したので、我慢を重ねていた幕府もついに浪士討伐に決し、二十五日の黎明、庄内藩兵約一、〇〇〇人を主力とし、それに上の山藩らの兵を加えて約二、〇〇〇余人が、三田の薩摩藩およびその支藩佐土原藩の両邸を包囲、これを焼討ちした。殺傷数十人、江戸留守居篠崎彦十郎は死に、益満は捕へられ、伊牟田・相良・落合ら約三〇人ほどは重囲を脱出し、品川沖に碇泊していた薩摩藩の汽船翔鳳丸に乗って脱出した。これを伝え聞いた大坂の会津・桑名藩兵は激昂して、ついに鳥羽・伏見の戦となり、薩長はついに幕府武力討伐の口実をつかんだ。

 薩摩屋敷焼討事件とは以上のような経過と歴史的役割をもつ事件であるが、品川宿は三田に近く、また浪士らの海上からの脱出路にあたっていたので、よそ事ではない大事件であった。