関東御取締出役はさっそく支配下村々に急廻状をまわし、薩摩浪士に対する内密探索を申しつけた。この命に対し品川領下蛇窪村の名主見習の伊藤八郎より「極密御調ニ付書取を以奉申上候」(「伊藤家文書」)という報告書が出されている。薩摩藩邸を脱出してのちの浪士の品川での行動が非常に詳細に出ているので、記事の内容を紹介すると大要つぎのようである。
一、去年十二月二十五日江戸三田の薩摩屋敷に潜伏していた浪士たちが、酒井左衛門尉様(羽州鶴岡の城主、一七万石余)の人数との間で戦争になり、その時打ち洩らした浪士たちが、同日の昼四ッ半時(今日の昼前十一時ころに当たる)に銘々小道具・鉢巻・白陣羽織・抜身の刀か抜身の鎗・馬乗筒などを持ち、なかに白の釆配を持つ者一人、都合五〇人ほどの人間が東海道を江戸の方から一隊をくんで品川宿をさしてやって来て、品川宿歩行新宿より炮火(放火か?)を致す心組のようであった。しかし同宿の松岡屋や嶋崎屋など遊女宿へは去年中より時折やって来てなじみになっていたので、浪人たちがそこえ立寄ったところえ、顔なじみの売女や女房たちが出ていって炮火(放火)することはどうか遠慮してほしいと頼んだところ、早速聞きいれてくれ、そのうえ金子とか着類などを形見にと差し出し、また戸障子などへ辞世などを書く者もあったとのことである。
それから隊をととのえて北品川宿にさしかかり、南北堺橋ぎわの旅籠屋はやしや治兵衛方へやってきて、「この家には八州方(関東取締出役)でも居るのではないか」などといって石突で戸をつきあけたところ、折悪しくそこに八州方の服部桂之助と宿役人、それに外の者もいたので〝動揺いたし夫々散乱〟した(ただしこの場合、動揺し散乱したのが浪士たちだったのか、八州方の側だったのか、また両方だったのか、この文面からはわからない)。
ともかく幸いに大事にはいたらず、浪士隊は間もなくそこを立退き、それから南品川宿へさしかかり、□和屋という旅籠屋に空砲をうちこみ、またその隣家の煮売屋の仁三郎の宅へも空砲をうちこんだりしているうちに、持っていた草箒に火薬を仕掛け、それを仁三郎の屋根にほうりあげたので、丁度おりからの烈風にあふられてたちまち火事になった(この火事を品川では薩摩火事といっている)。
一、この浪士隊のなかに二人ほど重傷の者がまじっていた様子で、このあたりに医者はいないか、と通りかかりの者を捕へて聞き、もし教えなければ殺すとおどすので、この横丁に桑原という医師がいると教えたところ、早速やっていって膏薬などをはり、その御礼として空砲をうちこんでいった。
一、この怪我をした浪士の治療手当は、宿役人はもちろん宿の重立った者などが世話をしたのでは全くなく、宿内が兵火で一同が取り乱している間に、全く知らぬまにおこったことである。
一、右の浪士たちは同宿三丁目にある仮問屋場の前を通りかかり、貫目改所御出役衆にむかって、改所よりおりるようにとのことなので、自分たちは貫目改所の御用でここにいるのだと説明したが聞き入れないので、やむを得ずおりたところ、抜身の鎗を肩先につきつけ大小を奪い取り、そのうえ切り殺すぞという者もあったが、まあ継場役人だから殺すのは許してやろうというので、仕方なく改所を捨てて立退こうとしたところ、ちょうどそこえ薩摩藩の女房衆らしいものがこれを見兼ねて、浪士たちに、かれらは貫目改所の役人であって、そうむきになることはない、大小は返してやるように、といったところ、その言を容れたので無事にすんだが、帳付その外のものはのこらず散乱してしまった。
一、浪士たちは問屋場よりなお一隊をもって大井村御林町に向けて進み、同町川崎や吉五郎宅におし入って、酒食をとる様子に見えた。浪士のことはすでに聞き知っていたので、家内の者は近所に立退かせ、下人が数人残っていたところ、そこへ浪士が無理におしこんで来て、飯櫃を往来に持ち出し、銘々手づかみに食事をし、それでも不足だというので隣家にもおしこんで、ここでも往来に飯櫃を持出して手づかみで食事をした。そのとき浪士たちが何人ほどいたかは、なにぶんにも惑乱していたので定かでないが、ともかくそのうちの二人は重体の様子で食事もしなかったようである。この時の食事代は支払わなかったようである。
一、十二月二十五日昼九ッ半ころ(午後一時ころ)、大井御林猟師町の権兵衛と常次郎の持舟で河岸においてあった漁船に浪士たちが乗こんできて、舟にいた乗子に「もし乗船させなけれは殺すぞ」とおどし、この二艘の舟で沖に泊まっていた蒸気船までむりやりに送らせた。このとき舟に乗ったのは約三〇人で、軽い傷をうけている者は多かったが、重傷は二人であった。二艘ともに舟賃は払ってもらえなかったようである。
一、かれら浪人仲間のものでおくれて来た者二〇人ほどが、すでに船が出た後にやって来てあれこれしていたが、ちょうど通りかかった荷船をみつけ「岸につけなければ殺すぞ」とおどし、やはり二艘の舟に乗って沖に出たが、かれらはすでに蒸気船が出発した後だったので羽田まで行って、そこで上陸した様子である。その時に舟の中に刀を忘れていったものもあったとのことである。
一、十二月二十四日夜九ッ時ころ(十二時ごろ)吉田・服部両人様が品川宿においでになり、浪士のなかで討洩らした者が通るだろうというので、人足の手当をして口々へ配置するようにと指示し、吉田様は大森に行かれて農兵の組織をされる様子、また服部様は宿内で御休息の様子である。
一、宿の口々に配置する人足は台町口は一ヵ所で二~三〇人程つめている様子である。
一、翌十二月二十六日に御勘定頭取格組頭斎藤辰吉様が、馬場・宮田両人を同道して品川宿に来、宿役人たちを呼集めて「浪士通行にあたって取押へられなかったのは不都合至極」と厳しくおしかりのうえ、色々今後のことを指示してお帰りになった。
一、十二月二十八日、酒井様御手の者が品川歩行新宿の万次郎という者を召捕えて行った。というのは同人の妻は芸者で浪士たちのうち時折遊びに来てなじみの者があったからのようである。
伊藤八郎の内密報告書には以上のことが書かれており浪士たちの品川宿での行動が非常に詳細に記述されている。
なおこのとき品川沖にいた薩摩の蒸気船は翔鳳丸(四六一トン)で、この舟に逃げこんだのは相良(さがら)総三(小島四郎)、水原二郎(落合直亮)以下二八名とも二九名ともいわれている。翔鳳丸がおくれて来た舟の浪士たちを収容しなかったのは、その近くに泊まっていた幕府の軍艦回天丸・咸臨丸との間に闘いになったからである。幸いに咸臨丸はちょうど修理のため汽罐をとりはずしていて動くことができず、また夕暮がせまってきて視界がきかなかったので、翔鳳丸はともかく脱出、途中でなんどか難破せんばかりのひどいめにあったが、正月二日の夕方やっと兵庫港に入ることができた。
一方羽田に上陸した浪士たちは評議の結果、ともかくも陸路を京にのぼって、海上から脱出したものと合流しようというものと、一まずここで別れて他日を期そうというものとの二派があった。ともあれどちらも多くは不幸な運命をたどったが、少数ではあったが海路組と合流できた者もあった。