江戸時代の租法は幕府と藩、また藩相互の間にこまかいところでは、かなりの差異が認められるが、これを概括的に見ると本途物成(ほんとものなり)・小物成(こものなり)・課役の三つに大別することができよう。
人類の歴史を大きく分けるとき、色々の区別けができ、資本制生産社会以降(普通これを近代社会と呼ぶ)の社会と、それ以前の社会とに区分できるが、資本制生産社会以降の社会においては、社会の生産の主要な部分が、工場における機械生産によるものであるのに対し、それ以前の社会では、社会的生産の主要な部分が農業生産に頼っている。すなわち資本制生産社会以前の社会は、農業生産の社会である。そのうえ、この農業生産も、資本制生産社会以降の農業のように非常に大きい、かつ多種類の機械(農業機械)と、非常に高度の化学肥料とを用いない原始的農業であるから、農業の総生産の量は、主として耕地(土地)の大小に規定されることになる。わかりやすくいえば、その社会での農業生産の富の大小を決める一番大きな、かつ決定的な要素が耕地(土地)の大小なのである。
江戸時代は日本の歴史のうえで、日本社会がたどってきた農業社会段階の最後の部分を占める時代であるので、耕地が社会的富を生み出す最大の要素であるわけで、したがって耕地にかかる租税が、江戸時代社会の租税の一番主要な部分(ほとんど大部分)を占めるわけである。
江戸時代の土地は、大別して三つに分けることができる。その第一は田畑すなわち耕地で、この場合厳密にいえば、検地(けんち)を経て高(たか)にくりいれられた耕地をいい、ただ漠然と土地という場合も、このような意味での耕地を指すことが多い。第二は町地で、農民の居住地でない町人その他の居住地、主として町場の土地をいい、第三は第一にも第二にも属さない未耕の原野・山林地域をいう。
第一の土地にかかる租税を本途物成という。年貢(ねんぐ)という漠然とした言葉で呼ぶこともあるが、江戸時代の租税のほとんど全部に近い量がこの本途物成である。したがって大まかには江戸時代の租税は、この本途物成のことだと考えても大過はない。
第二の土地、すなわち市街地にかかるものを地子(ちし)という。しかし江戸時代には地子を免除された場合が非常に多かった。たとえば京都の地子は、織田信長によって永久に免除され、江戸の地子も徳川氏によって免ぜられ、また大坂・堺・奈良なども、寛永十一年(一六三四)徳川家光によって免除された。南北両品川の場合も宿場町であるので、東海道の宿駅整備の一環として、慶長六年(一六〇一)に地子免除地を五、〇〇〇坪、さらに寛永十七年(一六四〇)に一万坪追加して、都合一万五〇〇〇坪の免租地が与えられている(「沿革御調ニ付品川領宿村書上控」資一三四号)。
第三の土地、すなわち原野・山林は、庶民たちに制限された用益、すなわち柴・雑木を採って薪炭にするとか、下草や木の若芽を刈取って肥料(刈敷)とするとかは許されるが、原則的には領主のものであった。このような原野・山林とか、河川・湖沼、また海などを庶民が用益した場合にかかるのが小物成である。小物成というのは、田畑より納める本途物成以外の雑税を総称していうので、小年貢ということもある。小物成は山林・原野・河海などの土地が、その地方の住民に何らかの利益または収入をもたらす場合に課するものと、農業以外の商工業その他の生業に課するものとの二種類に大別できるが、その種目・名称は、地域・時代によって差異があって同じでなく、明治八年(一八七五)二月に、明治政府が雑税廃止のため調べたところ、全国で約二、〇〇〇種類をうわまわっていた。たとえば山年貢・山役・山手米永・野年貢・野手米・草年貢・茶年貢・茶役・漆年貢(うるしねんぐ)・櫨年貢(はぜねんぐ)・松山藪林年貢・池役・海役・河岸役・鰯分一(いわしぶいち)・鯨分一(くじらぶいち)・市売分一・受山分一・水車運上(うんじょう)・市場運上・問屋運上・醤油屋冥加(みょうが)などその一例である。