本途物成・小物成についで、第三の負担は課役である。庶民の労働力を租税の一種として調達することは、古代律令(りつりょう)社会の租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)の庸以来、広くおこなわれてきたことで、とくに戦国時代は軍夫役の必要上、庶民から直接労働力の提供を求めることは広くおこなわれていたが、天下が統一され、平和が続くにしたがって、直接の労働力徴収は段々と減少し、次第に耕地からの収穫物に税をかける生産物地代が、税の主要部分となってきた。それは労働力を直接に領主がとりたてると、農民の耕作労働が阻害され、その結果かえって租税収入がへるということがあったためである。しかし江戸時代でも、課役がまったくなくなったというわけではなく、とくに街道筋に近い村々では、宿場の助郷(すけごう)として労働力が徴収され、それ以外でも、今日の社会からは考えられぬほど、諸種の課役労働があった。