下蛇窪村の延宝八年から明治四年までの年貢免状を、その記載様式から分類すると二つに分けられる。一つは延宝八年から元禄九年(一六九六)までのもの(A型)で、いま一つは元禄十年から明治四年までのもの(B型)である。いまその各々をあげてみると次のようになる。
(A) 申歳下蛇窪村御年貢可納割付之事
上田八反九畝拾四歩 内壱反三畝拾七歩 検見引
残四反五畝廿六歩 四斗七升取
此取弐石壱斗五升七合
中田壱町弐反八畝廿四歩 内[ ](虫) 検見引
残九反四畝廿歩 三斗七升取
此取三石五斗三合
下田弐町七畝六歩 内弐反弐畝五歩 検見引
残壱町四反五畝[ ](虫)歩 弐斗七升取
此取三石九斗壱升六合
上畠三町弐反九畝六歩 八拾八文取
此永弐貫八百九拾文
中畠弐町八反弐畝拾七歩 七拾八文取
此取弐貫八百四文
下畠拾壱町三反[ ](虫)歩 七拾三文取
此取八貫[ ](虫)六拾六文
屋敷拾四町五反九畝五歩
此[ ](虫)
武士屋敷
拾四町弐反四畝[ ](虫)文取
此取弐拾八貫[ ](虫)拾弐文
三反五畝弐[ ](虫)
此取[ ](虫)
米合九石□(虫)斗七升六合
永合四拾弐貫三百四拾文
外
一 米四斗四升 (虫)合 上り田仕入出し
一 永六百文 同断
右如レ斯相定上 (虫)霜月[ ](虫)切而可レ致二皆済一、若[ ](虫)汰以二譴責一可二申付一者也、仍如レ件、
延宝八申十一月十五日
伊半十印
十兵衛印
伊兵衛印
五郎兵衛印
長衛門印
清左衛門印
作十郎印
清兵衛印
金三郎印
吉[ ](虫)印
次郎兵衛印
清右衛門印
清六印
伊兵衛印
三郎兵衛印
平十郎印
市左衛門印
惣五郎印
長〔 〕(虫)印
久三郎印
五郎兵衛印
庄右衛門印
市郎兵衛印
品川区地域の年貢免状のなかで、これが最古のものである。虫喰いのため判読できないところが多いが、書式を知るには充分である。
(B) 丑年御年貢可納割付事
一高百七拾五石三斗三升六合 武蔵国荏原郡品川領 下蛇窪村
此反別三拾七町九反廿歩
此訳
上田壱町五畝九歩 内五畝歩 検見引
残分ケ
三反五畝廿四歩 五斗取
此取壱石七斗九升
四反八畝廿歩 弐斗取
此取九斗七升三合
出反歩 弐斗五升取
壱反五畝廿五歩
此取三斗九升六合
中田弐町壱反五畝廿壱歩 内壱反歩 検見引
残分ケ
四反五畝廿歩 四斗取
此取壱石八斗弐升七合
七反三畝四歩 弐斗五升取
此取壱石八斗弐升八合
出反歩
八反六畝廿七歩 弐斗取
此取壱石七斗三升八合
下田三町弐反七畝五歩 内五反四畝廿八歩 検見引
残分ケ
七反壱畝弐歩 三斗取
此取弐石壱斗三升弐合
弐町壱畝五歩 壱斗取
此取弐石壱升弐合
上畠三町七反三畝拾六歩
此訳
壱町三反六畝拾壱歩 七拾文取
此取九百五拾五文
壱町廿歩 子田ニ成 壱斗五升取
此取弐升五合
壱畝六歩 当丑ノ田成 壱斗五升取
此取壱升八合
出反歩
弐町三反四畝九歩 三拾五文取
此取八百弐拾文
中畠五町八反六畝拾弐歩
此訳
弐町七反八畝廿七歩 五拾文取
此取壱貫三百九拾五文
出反歩
三町七畝拾五歩 弐拾五文取
此取七百六拾九文
下畠拾壱町七反七畝廿九歩
此訳
拾壱町弐反八畝拾弐歩 四拾五文取
此取五貫七拾八文
出反歩
四反九畝拾七歩 三拾五文取
此取百七拾三文
下〻畠四反弐畝拾歩 三拾五文取
此取百四拾八文
屋舗九町六反弐畝八歩
此訳
武士屋敷
七町六反七畝八歩 弐百文取
此取拾五貫三百四拾五文
百姓屋敷
壱町九反五畝歩 百文取
此取壱貫九百五拾文
米合拾弐石七斗三升九合
永合弐拾六貫六百三拾三文
外
一 永四拾九文 野銭
此反歩弐反四畝拾六歩
一 永拾六文
此反歩壱反拾九歩 藪銭
右者去丑年御物成米永以二新検一取附被二仰付一候処、従二検地方一水帳到二当年一相渡ニ付、割付令二延引一候、右御年貢米永、無二相違一急度可レ遂二勘定一、若於二無沙汰一ハ以二譴責一可二申付一者也、
元禄十一年寅三月
伊半左印
名主百姓
(A)と(B)との一番大きなちがいは、(B)の場合のように年貢免状の一番初めに村高とそれに対応する反別(耕地面積)と、村名(村名に何国何郡の国郡と支配の肩書がつく)がきて、つぎに田畑の細目がくるといった形式が、いわゆる〝年貢免状〟といわれているものの一般的型式であるが、(A)の方はそれからみると、最初の村高・反別・国郡・支配・村名のところがなくて、いきなり田畑の細目に入っている。ただしこの(A)型がここだけで見られる全く異例のものかというと、かならずしもそうではなく、江戸時代の前半期、それも比較的早い時期には、よく見られる形式である。