江戸時代の年貢の取り方には、大きく分けて定租(じょうそ)法と毛取(けとり)法(検見(けみ)法)という二つの取り方がある。定租法というのは、その年の作物のでき、ふできにかかわらず、あらかじめ決められている額(量)を取る方法であり、毛取法(検見法)というのは、その年その年の作物のでき具合を見て、それに応じた額(量)を年貢として取る方法である。この定租法・毛取法(検見法)ともに、またその実施方法からいっておのおの反取(たんどり)法・定免(じょうめん)法と、畝引検見(せびきけみ)法と有毛(ありけ)検見法とに細分することができる。
定租法 反取法
定免法
毛取法(検見法) 畝引検見法
有毛検見法
江戸時代初頭の年貢の取りかたは、反取法だったろうといわれている。江戸時代の田畑は、検地によって上・中・下というように等級づけられ(これを位付けという)ていたが、反取法というのは、上田・中田・下田一反歩からの取米を、おのおの七斗五升・六斗五升・五斗というように決めて(これを根取米という)、その年の作柄に関係なく、これをその村の耕地の広さに掛け合わせて、年貢量を決める方法である。しかし、この方法は生産力が不安定で、水害・風害・旱害・虫害といった災害の多かった江戸時代初期には、色々不都合が多かったので、三代将軍家光の寛永年代(寛永元年は一六二四)に、その年々の作柄に応じて年貢を取りたてる検見取法に年貢の取りかたを替えたといわれている。
このとき採用された検見の方法が、畝引検見だったといわれている。畝引検見というのは、秋の稲が成熟したとき、幕府の役人が実際に農村に出向き、坪刈といって、上・中・下おのおのの田の平均的でき具合と思われる部分の稲を一坪だけ刈取り、それを玄米にしてみて、その量と、本来その田から取れるはずだと考えられている量とを比較し、その不足量の割合だけ、その村の耕地が少いものと計算して、あとは反取法によって、年貢量を決める方法である。
つまり江戸時代は上田は普通一石五斗の玄米がとれる田とされているので、五合摺(ずり)(一升の籾を玄米にした場合、その半分の五合の玄米がとれるような成熟状態の稲をいい、江戸時代の平均的成熟度とされた)であるとすると三石(三〇〇升)の籾がとれるわけである。したがって一反歩は三〇〇坪だから一坪からは五合摺の籾が一升とれる計算になる。したがって検見坪刈をしたとき、五合摺の籾が八合とれたとすると、本来とれるべき籾量より二合(つまり二〇%)だけその年の作柄は悪かったということになる。すると、その村は本来上田が一〇町歩あったとすると、その二〇%の二町分だけはなかったこととして、残る八町歩に上田の根取米を掛け合わせて年貢量を出すわけである。
下蛇窪村の延宝八年の年貢免状を見ると、たとえばその最初のところが、
上田八反九畝拾四歩 内壱反三畝拾七歩 検見引
残四反五畝廿六歩 四斗七升取
此取弐石壱斗五升七合
となっているが、これは検見坪刈の結果、上田八反九畝一四歩のうち一反三畝一七歩分が、その年の不作相当分になるので、それを引去った四反五畝二六歩分に、根取米四斗七升を掛け合わせた二石一斗五升七合が、この年の上田から取るべき年貢米量という計算をしているので、明らかに延宝八年の下蛇窪村での年貢の取りかたは、畝引検見法であったということになる。そして元禄十年(一六九七)のものも、上田・中田・下田、また上畠・中畠・下畠ともにおのおの検見引をしたあとで、残った部分に根取米を掛けているところから、同様畝引検見法だということになる。つまり(A)型も(B)型も形式的差異にかかわらず、年貢の取りかた(賦課方法)のうえでは、同じであるということになる。