それでは下蛇窪村の場合、延宝八年から明治四年までの間、約二〇〇年近くも畝引検見取法という年貢の取りかたが、なされていたのかというとそうではなく、享保一〇年(一七二五)から定免法(じょうめんほう)というあたらしい年貢の取りかたがでてきて、それが明治四年まで原則的にはつづくのである。したがって年貢の取かたからいえば下蛇窪村では、延宝八年←→享保九年の間は畝引検見取法で、享保一〇年←→明治四年の間は定免法ということになるのである。
これを図示すると前図のようになる。では定免法というのは、どのような年貢の取りかたであろうか。まず下蛇窪村で、最初の定免法がおこなわれた享保十年の年貢免状を記してみると、次のようになる。
巳年定免御年貢可レ納米永之事
一高弐百七拾五石三斗三升六合 武蔵国荏原郡品川領 下蛇窪村
此反別三拾七町九反廿歩
田方六町四反八畝五歩
内 此取米弐拾石七斗八升七合
畑方三拾壱町四反弐畝拾五歩
此取永三拾三貫四百五拾文
右田畑町歩分ケ
上田壱町五畝九歩
中田弐町壱反五畝廿壱歩
下田三町弐反七畝五歩
上畑三町七反三畝拾六歩 内 弐畝廿六歩 田ニ成ル
下畑拾壱町七反七畝廿九歩
下〻畑四反弐畝拾歩
屋敷九町六反弐畝八歩
此わけ
武士
弐反四畝廿五歩
武士屋敷之内帰リ地酉戌より百姓畑ニ成
七町四反弐畝拾三歩
百姓
壱町九反五畝歩
外ニ
永四拾九文 野銭
此反歩弐反四畝十六歩
永十六文
此反歩壱反十九歩 藪銭
米壱斗六升五合 御伝馬宿入用米
右ハ当巳年ゟ未年迄三ケ年定免相願、伺之上申付候、米永辻霜月廿日を切テ可レ致二皆済一、若其過於二無沙汰一者、以二譴責一可二申付一もの也、
享保十年巳十一月五日
伊半左
名主百姓
まず年貢免状の表題のところに「巳年定免御年貢…」と定免という言葉と、後書きのところに「右は当巳年ゟ未年迄三ケ年定免相願、伺之上申付候」とあるように、この定免というのは享保十年(巳年)から同十二年(未年)までの三ヵ年の定免で、しかも下蛇窪村の名主百姓たちが、定免にしてくれるようにと願い出(「定免相願」)、それを受けた関東郡代伊奈半左衛門(伊半左)が幕府勘定所に、願を許可してよいかどうかを伺って、その結果申しつけたものである(「右伺之上申付」)。
幕府の場合、年貢のとりかたは寛永年間ころに、反取法から畝引検見取法に移ったといわれている。幕府の直接支配する土地(天領)は約四〇〇万石ほどあるが、幕府はこれを代官に一人五~一〇万石ぐらいずつ分割して支配させた。下蛇窪村をはじめ品川区地域の村々の多くは、関東郡代伊奈半左衛門が支配するが、郡代も代官の一種である。
郡代・代官たちは、手付(てつき)・手代(てだい)などと呼ぶその下僚を指揮して、支配地の村々の実情をよく掌握し、秋の収穫期になると、自らも村々をまわって検見をし、年貢の取り高を決めるのである。検見(畝引検見)取法は、このようにその年、その年の作物のでき具合に見合った年貢の取りかたができるという意味では、まさに理想的な年貢の取りかたであるが、欠点がないわけではなかった。