検見取法の欠点は、大きくわけて次の三つの点である。
(1) 手続・実施方法が複雑煩瑣であって、村側の苦労と入費とが多い。
(2) 実施にあたって私情の入りこむ余地が大きく、したがって不正を伴いやすい。
(3) 検見が終わるまで収穫ができないため、とりいれの適正時期を失ったり、裏作の農作業がおくれたりするなど、農期を失する恐れがある。
秋になって収穫期が近づくと、村々では村役人が中心になって、田畑一枚々々のでき具合を詳細に調べておいて、でき高の下調べ帳を作成しておく。そのうちに代官所(郡代役所)の下僚がやってきて、それをもとにして詳細な検討をおこなう。これを小検見(こけみ)という。それが終わると主として代官自らが、もう一度検見をしてまわって、その年のでき具合の検査をおこない、その年の年貢高の決定をおこなう。これを大検見という。これでわかるように、大変煩瑣な手続を経て年貢が決まるので、村々にとっては下準備からはじまって、検見役人の送迎・接待と身心を労するうえ、入費も多いのである。たしかに検見取法は、実情に即した年貢のとりかたができるという利点はあったが、また逆に私情の入る余地も大きかったのである。というのは、検見取法の骨子というのは、坪刈といって実際に、今年はどれくらい作物ができているかを決めるため、サンプル調査の要領で上田・中田・下田おのおのいくつずつかのものをえらび出し、その田のなかの一坪分だけ刈り取り籾にし、さらに玄米にしてみるという手続を経るわけである。この坪刈には、非常にこまかい実施細則のようなものがあるが、それでもどの田のどの部分を坪刈するか、また一坪と決めて刈取る部分を決めるため竿を入れるが、この竿入れの手かげんによって、収穫量の査定にかなりのひらきがでてくるなど、検見役人の心情が大きく作用する可能性があった。そのため村側では、贈賄・饗応などで、できるだけ検見役人の心証をよくして、検見を自分たちに有利に導こうと競った。このため検見をめぐる贈賄・饗応は、むしろ常識のようにさえなった。
どんな作物でも作付け・収穫の適正時期というものがあって、その許容期間は案外短いものである。稲の場合でも適正期に収穫しないと、せっかく丹精して育てた稲が、倒れて腐ったり、鳥や鼠に食われたりするものである。検見取法の場合は、たとえば一〇万石を支配する代官の場合、江戸時代の平均村高が四〇〇石だから、二五〇ヵ村を検見してまわらなければならず、よほど早くまわっても、かなりの日数を要することになる。とすれば適正収穫時に稲刈をすることは、まず不可能になってくる。このことは早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)といった収穫期の異なる品種を、村々で混合作付けするようになると、なおその矛盾が激しくなり、また水稲の裏作もおこなうといった、多毛作農業がおこなわれるようになると、なお助長されるわけである。
こんなことから農業経営のすすんでいる関西・西国地方では、早い時期から検見取法をやめて、定免法を採用する領主が段々とあらわれてきた。伊予松山藩では、延宝七年(一七一四)に本格的に定免法を採用するが、そのときに前記のような検見取法の欠陥をあげ、定免になればそのような農民の苦労不便がなくなるうえ、年貢が一定しているので、百姓たちは生活するにあたって諸事倹約につとめ、荒地開発・深耕肥培などによって収穫を多くすれば、その分が全部百姓の得分になる、として定免の利点を強調し、したがって定免になれば、少しくらい年貢がふえたとしても、結局は百姓の得になるのだと強調している。