定免法の登場

539 ~ 540

近世社会の統一者である豊臣秀吉は、その年の収穫を三つに分け、その二を領主が、その一を農民が取るようにと年貢徴収の規準を示している。徳川家康もこれを受けついだと見られ、かれのいう〝百姓を生かさぬよう、殺さぬよう〟、ぎりぎりいっぱいの線まで年貢を取ると、率にして七公三民よりちょっと強い線であったと考えられる。ところが時代がさがるにつれて、段々とこの率がさがり、新井白石が政治をみるようになった正徳の初年(正徳元年は一七一一)ころには、僅かに二割八分九厘にまでなっていたといわれる(『折たく柴の記』)。

 その原因を新井白石は、代官たちが検見をするとき、農民から賄賂(わいろ)をとって年貢をまけてやった結果だと考え、一時廃官になっていた勘定吟味役(会計監査官のような役)を、正徳二年に再設するとともに、さらに検見のなかで一番不正の入る余地の多い、代官所手代による小検見を、正徳三年に廃止したりして、不正による年貢収入の減少を防止することに努力した結果、正徳三年には、幕府の年貢収入は前年より米にして四三万三四〇〇俵ふえたと書記している(『折たく柴の記』)。いちおう参考までに下蛇窪村の場合を、正徳元年・二年・三年についてみると、つぎの表のようになる。取米は田にかかる税、取永は畑にかかる税であるが、この間田の方でかなりいちじるしい増加が見られる。

第29表 下蛇窪村正徳年間取米取永表
取米 取永
正徳元 一四石〇二〇 三四貫九五五
正徳二 一六・三三五 三六・二一九
正徳三 一九・三五二 三六・九三九

 

 幕府の年貢収納率の低下の原因を、代官および代官所役人たちの、検見時の収賄の結果と考えたのは、新井白石のみではない。幕府の首脳部の多くはそう考えていたようで、紀州から入って八代将軍になった吉宗も同様で、幕府財政の建て直しのため、総代官の勤務評定をし、成績が悪かったり、不正のあった者は、切腹をはじめ、思い切った処分をするが、結局「年貢の取りかたは、検見取法が理想ではあるが、これを厳正におこなえるほどりっぱな代官が、そう居るわけではない。不正役人を黙視するよりは、次善の策だが定免法をとることにする」というので、享保七年(一七二二)から、できるところから定免法に切りかえることにふみ切っている。