しかし定免法の採用はただ検見取法のもっている欠陥を取り去る目的からだけではない。
下蛇窪村と同様に天領で、享保十年から三ヵ年の定免になっている信州佐久郡五郎兵衛新田村には、「当村はいまから九年前の享保十年に、代官から、享保十三年までの三ヵ年期の定免を願い出るよういいわたされた。村ではそれをことわったところ、『定免は百姓のとくになるのだから願い出るように』と、代官からたっていわれたので、やむなくそのとおり願い出た。ところが規定の三年がたつと、こんどは『いままでより年貢をふやしてふたたび願い出るように』といわれた。これより多くの年貢を出すことはどうしてもできないから、許してくれるようにと訴えたが、『これは天領全体でやっていることだから』というので、結局、年貢量をふやして定免をおしつけられた。それなのに今度もまた同様年貢をふやして、定免を願い出るようにいってきた…」という訴えの書状が残っている(学習院大学蔵「柳沢家文書」)。
これでわかるように、幕府の定免法の採用には、それが農民たちのとくになる事を強調して、年貢量を引上げようというねらいがあったわけで、幕府は何度も何度も農民たちと交渉して、もうこれ以上引上げることができないと思う点までせりあげ、それを幕府に報告して指示を仰ぐようにと代官に命じている。
したがって定免の年貢額は、代官が農民と何度も何度も折衝し、その結果妥結額を農民側から願い出、それを代官が勘定所に伺い出て、そのうえで決定するという形式をとるのである。下蛇窪村の最初の定免の年である享保十年の年貢免状(前掲)の後書きが、「右ハ当巳年ゟ未年迄三ケ年定免相願、伺之上申付候」とあるのはこのためである。