年貢のせりあげ

548 ~ 551

幕府が従来の検見取法から享保年間定免法の採用にふみ切ったのは、一つは検見取法は、事務が煩瑣なうえ実施経費がかさみ、さらに関係役人の収賄など、不正が入りこむという欠点を是正するためであったが、いまひとつは定免法は検見取法よりはるかに、農民たちにとって得であることを強調して、年貢をせりあげることをねらってのことであった。そのため何度も何度も農民たちを説得強要して、年期の切替えごとに年貢をせりあげたものである。いま下蛇窪村の場合をみると、享保十三年に新しい五ヵ年期定免に移る場合に、米一・五三七石と永四・四二九貫をせりあげ、享保十八年よりはじまる次の定免期間のときは増減なしで、元文三年から始まる次の年期のときは、逆に米〇・六六一石、永二・二〇八貫減少している。しかし中ひとつおいた次の寛延元年から始まる年期には、米三・二四九石せりあげている。

 しかし大きな増減はこれで終わるが、とくに寛政八年から始まる十ヵ年の定免期間段階では米〇・〇一二石、同〇・〇〇五石、同〇・〇〇〇五石、同〇・〇〇一石、同〇・〇〇一石、同〇・〇〇八一石、同〇・〇〇八石、同〇・〇〇八石といったように僅少であるが毎回年貢量をせりあげている。

 安政二年(一八五五)までの年限が終わって、次の年期に移るとき、下蛇窪村で米八合だけ増免になっている。この年に関する「定免年季切替下書」(立正大学蔵「利田家文書」)という史料が残っているが、それによると、南品川宿・北品川宿・二日五日市村・下大崎村・居木橋村・上大崎村・谷山村・桐ケ谷村・戸越村・上蛇窪村・下蛇窪村が各々、たとえば戸越村の場合を例にとると、

 

 午ゟ卯迄拾ケ年定免年季明

 当辰ゟ丑迄拾ケ年定免願

一 高九百弐拾壱石三斗七升三合

   此反別百拾八町六畝拾七歩

     内

  田高八拾石七斗五升六合

   此反別八町三反八畝拾四歩

    此取米三拾三石八斗五升八合

   内  田米三拾弐石八斗壱升七合

      畑米壱石四升壱合

        内五升六合  去子免上増

  畑高八百四拾石六斗壱升七合

   此反別百九町六反八畝三歩

    此取永百六拾四貫九百四拾四文三分

   内  永百十八文壱分  去子免上増

というようにおのおの自村の高と、田畑から納めようとする年貢量を書上げたうえ、一一ヵ宿村連名で、「定免年季が明けたので、増米して次の定免を願出るよう申付けられ」、たいへん有難いことであるが、自分たちのところは用水の水不足のところで(下蛇窪村・戸越村など)、また一方目黒川つきの村々は、水難がちのところであるので、この上の増米は難儀至極だから、どうかこれくらいのところでお許し願いたい、と願い出ている。

 これを、下蛇窪村の年貢免状と比べ合わせてみると、この願下書と同じ年貢量になっているから、このまま幕府に受け入れられたのであろう。その結果のせりあげが、下蛇窪村の場合米八合である。たかが八合くらいの米の増減に、どれくらいの意味があったのか、といいたいところだが、しかし江戸時代の領主と農民との間にあっては、この僅少の額をめぐっての駆引きが、若干慣例化していたとはいえ、真剣このうえもない闘いであったというべきであろう。