下蛇窪村の年貢

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下蛇窪村の年貢(本途物成)を、年貢免状の残っている延宝八年(一六八〇)から明治四年(一八七一)までについて、その大略を示すと前表のようになる。延宝八年から享保十年(一七二五)までは毎年これをかかげ、それ以降をとびとびに示したのは、享保十年まではかなり変化に富むが、それ以降は定免の年季切替えのとき、ほんの少しばかりせり上げがあるほかは、損毛が激しくて、破免になったときについて変化あるのみで、それ以外はほとんど変化がないからである(破免と年貢せりあげについては、その項を参照されたい)。

第32表 下蛇窪村年貢米永
年代 石高 反別 取米 取永
延宝8 372反820 9石□76 42貫340
天和1 12.585 44.432
2 13.302 45.339
3 12.616 38.421
貞享1 14.  虫喰不明
2 0.000 28.300
3 14.□ 35.806
4 0.000 虫喰不明
元禄1 8.335 34.488
2 10.050 34.488
3 3.930 34.120
4 13.850 31.328
5
6 12.824 30.462
7 15.914 31.725
8 13.550 30.317
9 17.769 29.710
10 275石336 379反020 12.739 26.633
11 10.396 26.605
12 7.521 27.513
13 9.793 25.127
14 17.786 29.218
15 19.900 34.254
16 19.131 32.991
宝永1 22.053 36.420
2
3
4 14.617 35.053
5 16.774 30.675
6
7
正徳1 14.020 34.955
2 16.335 36.219
3 19.352 36.939
4 8.605 36.207
5 22.508 41.140
享保1 14.005 43.927
2 13.485 33.623
3 17.867 36.365
4 17.127 34.641
5 19.897 33.735
6
7 21.500 35.110
8 10.017 22.625
9 22.958 34.004
享保(1725)10 20.787 34.458
元文1(1736) 22.324 37.887
寛延1(1748) 24.912 35.579
天明1(1781) 24.929 35.579
文化1(1804) 24.951 35.579
天保1(1830) 24.957 35.999
明治1(1868) 25.46 36.111

 

 品川区地域の村々のばあい、天領に関する限り、定免法施行の時期方法、また破免および年貢のせりあげかたは、ほぼ同一ルールにもとづいていたろうということは先述したとおりだが、年貢取米永が江戸時代中期以降は、微増の傾向ながら、ほぼ一定していたろうことは前表に示す如く、大井村の場合も同様である。なお大井村は文化十一年(一八一四)の「戌可納御年貢割付之事」(『大井町誌』)によると、総石高一六五五石一斗五升一合四勺、この反別は一九九町八反七畝一九歩で、うち田は高で五七二石八斗一升九合四勺、反別で六〇町六反一畝一五歩、畑は高で一、〇八二石三斗三升二合、反別一三九町二反六畝四歩となっている。

第33表 大井村年貢米永
年代 年貢(米) 年貢(永)
文化11年 204石264 209貫588
天保2年 206.813 208.177
〃3年 210.081 212.903
〃6年 206.843 209.353
〃7年 144.308 213.403
〃8年 206.843 209.386
〃9年 211.141 213.441
〃13年 211.311 213.583
〃14年 245.928 209.133
〃15年 225.088 213.218
嘉永1年 225.296 215.088
〃2年 222.234 211.003
〃3年 225.508 215.264
〃4年 222.257 211.269
〃5年 225.527 215.373
〃6年 222.261 211.215
〃7年 225.587 215.340
安政2年 222.324 211.177
〃3年 225.592 215.230
〃4年 222.325 211.093
〃5年 225.598 215.303
〃6年 222.404 212.859
万延1年 225.672 216.801
文久1年 222.405 212.748
〃2年 225.673 224.977
〃3年 222.406 213.451
元治1年 225.705 217.547
慶応1年 222.438 213.377
〃2年 225.706 217.462
〃3年 222.446 221.801
明治1年 225.715 219.874
〃3年 234.166 242.306

(『大井町誌』より)

 まず当地方の年貢の構造について説明しよう。この村の年貢には、取米と取永とがある。取米とは米で取る年貢、取永とは永銭で取る年貢のことである。年貢(本途物成)の取りかたについては〝関東の畑永(はたえい)法、関西の三分一(さんぶいち)銀納法〟という言葉がある。これは田畑に年貢を掛けるとき、何村では何石何斗何升納めよというように、米の量制である石高で表現するのが基本であるが、畑からは普通には米はとれないので、場合によっては農民たちは米を買って納めなければならないことがでてくるわけで、それでは現実的でないというので、畑地の多い関東のばあいは最初から畑の年貢は永銭で示し、関西の場合は、畑が耕地の三分の一くらいあるのが標準であるとして、納入年貢石高のうち、三分の一は米を銀(貨幣)に換算して納めることをいったものである。

 関東の場合、畑にかかる年貢を石高で表示せず、なぜ最初から永銭で表示したかというと、関東は全耕地の八割五分以上くらいも畑があるといわれるように、田に較べて畑がいちじるしく多いため、三分一銀納法のように、いちど石高で表現しておいたものを、納入段階で三分一分だけ銀に換算するというめんどうくさい手続をさけたためである。

 なおここで永(えい)というのは実際の通貨ではなく、計算上の単位である。永というのは永楽(えいらく)銭の略で、永楽銭は江戸時代の初めに通用が禁止されたが、名目上では金一両を永一貫(一、〇〇〇文)とした。金貨の単位は一両の四分の一を一分(ぶ)、一分の四分の一を一朱(しゅ)というが、一朱にしても通用貨幣の単位としては大きいので、永という単位を併用したのである。すなわち一分は永二五〇文、二朱は永一二五文で、一朱以下はすべて永であらわした。東国では金貨と銭貨とが流通したので、永で数えた租税は、実際には金貨または銭貨で納入したのである。さらに永は、永で数える租税を意味し、畑永は畑にかける年貢のことであった。

 第32表のなかで、たとえば貞享二年(取米零)、同四年(取米零)、元禄元年(取米八・三三五石)、同三年(取米三・九三〇石)、同十二年(取米七・五二一石)、正徳四年(取米八・六〇五石)というように取米がいちじるしく低いのは、凶作による検見引(けみびき)のためであるが、取米について傾向的な問題としていえるのは古い時期ほど(ただし延宝八年以前はわからない)取米量が少いが、年とともに段々とあがってきて、新井白石が政権を握っていた正徳年間くらいに、ほぼ水準に近づき、享保の免定法施行過程で水準に達している。一方取永の方をみると、はじめの延宝八・天和一・同二くらいが一番高くて(四〇貫代)元禄の後半一時二〇貫代にさがり新井白石のころまた上がり、吉宗時代享保の初年に水準に達している。