下蛇窪村の場合

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下蛇窪村は品川区地域の村々のなかでも、山・河川・海に接しておらず、また武家屋敷・寺社の数も少ない、もっとも典型的な農村であるから、この村で負っている小物成も非常に単純である。

 下蛇窪村には延宝八年からの年貢免状があるが、小物成の初見は貞享元年(一六八四)からである。すなわち

 当子改

 一 永八拾四文               草銭

とあるのがそれである。肩書に「当子改」とあるところから、単に初見であるばかりではなく、この年から始まったものと断定してよい。草銭(くさせん)というのは、村内かその周辺の林野で、下蛇窪村の農民が草を採っている、その便益に対する雑税という意味であろう。金額は永八四文であって、この年の分は免状が虫に喰われてわからないが、前年の天和三年分の畑地年貢が永三八貫余、また翌貞享二年分の同様畑地年貢が永二八貫余であることと比較すると、量的にはたいしたことはないが、それまで無課税であった林野での採草に、この年から小物成をかけるようになったという変化に注目しておく必要があろう。

 この時期はちょうど五代将軍綱吉が、大老堀田正俊を国用掛(後にいう勝手掛老中)に任命して、年貢増徴を基軸に、幕府財政の建直しに全力をあげている時期なので、この草銭(くさせん)という小物成の新設もそのような動きの一環であったろう。

 以後元禄九年まで、下蛇窪村の小物成の草銭永八四文は固定したまま続くが、元禄十年(一六九七)の年貢免状からその姿を消して、同村の小物成は野銭と藪銭とになる。すなわち

一、永四拾九文                野銭

   此反歩弐反四畝拾六歩

一、永拾六文                 藪銭

   此反歩壱反拾九歩

である。この元禄十年分の年貢免状は、前年から織田信久を総奉行として、武蔵国総検地がおこなわれており、その結果としての新検地帳の配付がおくれたため、従来ならその年の十一月に出されるのが普通であるのに、翌元禄十一年三月に交付されている。すなわち野銭・藪銭という新しい小物成の出現は、新検地による新しい税法の結果ということになる。なお従来の草銭がなくなって、あらたに野銭と藪銭が生まれたことはまったく無関係でなく、それまで草銭(永八四文)を課せられていた土地の一部は、検地の結果耕地にくり込まれ、残る部分のなかの二反四畝一六歩に野銭(永四九文)が、あとの一反一九歩に藪銭(永一六文)がかけられるようになったのだと考えるべきであろう。

 さてこの野銭永四九文・藪銭永一六文という体制は、元禄十年(一六九七)の初出からずっと天保十三年(一八四二)まで続くが、翌天保十四年になって、

 

一、永拾九文

   此反別九畝八歩             野銭

    外壱反五畝八歩 当卯新規見取減

       此減永三拾文

一、永拾六文

   此反別壱反十九歩            藪銭

となって、野銭が従来より永三〇文減って一九文になっている。その理由は註記にあるように、それまで野銭のかかっていた二反四畝一六歩の原地のうち、一反五畝八歩が見取(みとり)地の方にまわったからである。したがって野銭が永三〇文減ったことをよろこんでおれないわけで、

反別壱反五畝八歩

   田七畝拾七歩

 内   此取米壱斗八升五合        去寅皆増

   畑七畝廿壱歩

     此取永三拾文八分         去寅皆増

とあるように、見取年貢としてあらたに課税されており、結局米一斗八升五合と永八文分だけが増税となっている。たいへん芸のこまかい増税処置であるが、そんなところに天保改革の一面が顔をのぞかせていて面白い。

 さてこの小物成が、野銭一九文、藪銭一六文という体制は、安政六年(一八五九)になって、質屋稼冥加永が永二〇〇文加わって、都合永二三五文となるが、以後この体制で明治四年(一八七一)まで続き、新しい税法に移行している。