大井村の文化十一年(一八一四)の年貢免状に、
一、永壱貫百弐拾参文 林銭
此反別四町四反九畝八歩
一、永五百六拾四文 藪銭
此反別参町七反五畝廿六歩
一、永五拾七文 芝銭
此反別壱町壱反四畝五歩
一、永五百五拾五文 野銭
此反別壱町八反五畝壱歩
一、銭弐拾八貫九百文 御菜肴代
此永四貫弐百八拾文弐分
但金壱両ニ付銭六貫七百五十文
一、永弐拾五貫五百拾五文九分 海苔運上
酉ヨリ丑マデ五ヶ年季
一、永壱貫弐拾文 水車運上
未十月ヨリ子九月迄中六ヶ年季
当戌ヨリ子迄三ヶ年季
一、永弐百文 砂利運上
とあって種類は前記村々よりはるかに多様である。
さて林銭・藪銭・野銭・芝銭については、元禄十年(一六九七)十二月の大井村の「検地水帳」の末尾に、
一、松杉雑木林 四町四反九畝八歩 百姓林 九拾壱ヶ所
此林銭 永壱貫百弐拾参文
但壱反ニ付廿五文毎年定納
一、藪 参町七反五畝廿六歩 百姓藪 四拾六ヶ所
此藪銭 永五百六拾四文
但壱反ニ付十五文毎年定納
一、萱芦野 壱町八反五畝壱歩 百姓持 四拾四ヶ所
此野銭 永五百五拾五文
但壱反ニ付三十文毎年定納
一、芝原 弐町五反拾弐歩 百姓持参拾ケ所
此芝銭 永百廿五文
但壱反ニ付五文毎年定納
とある。これによって林銭というのは松・杉・雑木などの生えた百姓林(原野・山林などは、江戸時代では原則的には領主の所有の属するが、ごく一部分一定の貢租を取って農民所有―厳密には占有――を許すことがあった)、それも九一ヵ所にちらばっており、一反歩に二五文の貢租を納めるものであったことがわかる。藪銭は百姓藪に、野銭とは萱(かや)・芦(あし)の生えた百姓所持の野に、芝銭とは同様百姓所持芝地にかかるものであったことがわかる。この註釈から、前記下蛇窪村・谷山村・二日五日市村のものもほぼ、その実体が推測できよう。
つぎの御菜肴代とは江戸湾内の、しかもこの品川地区浦々特有の雑税である。この周辺の漁村では、御菜八ヵ浦といって品川浦・大井御林浦(以上品川区)・本芝浦・芝金杉浦(以上港区)羽田浦(大田区)・生麦(なまむぎ)浦・新宿浦・神奈川浦(以上横浜市)の八ヵ浦には、鮮魚を魚初穂(はつほ)として江戸城に上納する風習があった。この風習のはじまりは正確にはわからないが、天正十八年(一五九〇年)徳川家康が関東入国のため芝浦を通りかかったところ、ちょうど潮具合が悪くて船が洲(す)にのりあげてしまって、動けなくなって困っていた。それを見た近辺の漁師たちが舟をだして家康の御座船を洲からはずして、江戸まで送って行った。これを恩とした家康は、何か望むところはないかと漁師たちに尋ねたところ、かれらは何も望むところはないが、ただ、いままで通り自由に漁業稼ぎをさせてほしいと申しでた。家康はこれを容れて、「水三合ある場所はどこでも自由に漁業をしてよい」という御墨付をかれらに下げ渡したので、その恩に報いるため、その後御菜魚として鮮魚を上納するようになったというのである。御菜八ヵ浦というのは、この鮮魚上納の八ヵ浦をいうのであるが、その習慣は寛政三年(一七九一)まで続いていた。しかし寛政四年以降は、安永三年から寛政三年までの一八年間の上納鮮魚を代金に見積もって、その平均を出し、その七〇%を銭で納めることになった。
ここにでてくる御菜肴代の銭二八貫九〇〇文というのは、この上納鮮魚が金納化されて大井村に割掛けられたものである。また寛政四年分の「南品川宿年貢皆済目録」に
一、永三貫六百三拾文五分 御菜肴代永
という項目があるのもこれである(資一四四号)。
海苔(のり)運上というのは品川沖の江戸湾でつくっている海苔からの収入に対するもので、永二五貫余とかなりの高額である。水車運上とは水車稼ぎに対するもので、砂利運上とは大井海岸で砂利採取をすることに対する課税である。