品川宿の場合

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天保十四年(一八四三)の「宿方明細書上帳」(資一七二号)には品川宿が負担する雑税として次の品目と金額が書上げられている。

 

① 船役銭        永六百文       南品川

② 林銭         永百七拾四文      〃

③ 藪銭         永弐拾五文       〃

④ 網干場銭       永弐拾八文       〃

⑤ 芝間銭        永八文         〃

⑥ 海苔御運上      永六貫四百四拾九文   〃

⑦ 同前         四貫三百六拾八文五分 南品川猟師町

⑧ 船焚御運上      永五貫文        〃

⑨ 旅猟船御運上     永弐貫文        〃

⑩ 猟師町裏築立地野永  永弐拾文        〃

⑪ 御菜肴代       銭弐拾八貫九百文    〃

⑫ 藪銭         永八拾五文      北品川

⑬ 林銭         永弐百七拾三文     〃

⑭ 林銭         永弐拾四文       〃

⑮ 芦野銭        永四拾六文       〃

⑯ 芝稲干場銭      永百五拾六文      〃

⑰ 御殿山御林内櫨絞所拝借地冥加永 永弐百五拾文 〃

⑱ 高輪空地冥加永    永弐拾五貫文      〃

 

 ①の船役銭は目黒川で使っていた船で、川船役所より言字御極印をうけた船六艘があった分の税であるが、当時では町として税を負担しているもの。②の林銭は六反五畝一五歩の林に対して、反に永二五文の割で納めるもの。③の藪銭は一反六畝一四歩の藪に対し、反に永一五文の割で納めるもの。④の網干場銭は網干場につかっている浜地で、五反六畝一〇歩あるところに、反に五文の割で納めるもの。⑤の芝間銭は一反五畝一四歩ある芝地に、反に五文の割で納めるもの。⑥⑦は海苔運上で、これは品川・大井沖の浅瀬で養殖した海苔にかかる税で、南品川宿で永六貫四四九文、同猟師町で永四貫三六八文五分、都合永一〇貫八一七文五分を納めるものである。この額は当天保十四年から弘化四年までの五ヵ年と決められたもので、田畑と同様、額に変化があるのが原則であった。なおこの海苔運上のほかに御膳御用海苔があった。御膳御用海苔というのは、品川・大井の沖でとれる海苔が、特に良質であるというので、幕府の奥御膳御用として、無代上納してきたもので、当時は大井・品川宿などから一二石分、三大森から三八石分、都合五〇石分を上納していた。なお海苔一石というのは、生海苔一石分のことである。

 ⑧の船焚御運上というのは、品川沖に諸国から船がやってきて、船掛りをするが、そのとき船を長保ちさせる目的で、船底を焚(や)くが、その茅を船に売って得られる収入に課せられたもので、天保十四年より嘉永五年(一八五二)までの一〇ヵ年間は年永五貫文と決められていた。

 ⑨の旅猟船御運上というのは、毎年六月上旬から十月下旬まで、品川沖に安房・上総の漁師たちがやってきて、鰆(さわら)・鰯(いわし)網を入れて漁をするが、その船から一艘に永一〇〇文ずつ取りたてて上納するもので年により増減があった。

 ⑩の猟師町裏築立地野永とは、猟師町裏に造成していた土地壱反歩相当のものである。

 ⑪の御菜肴代とは、大井村の場合と同様のものである。⑫の藪銭は北品川宿分としてある藪五反六畝一八歩分に反当永一五文の割でかかるもの。⑬は壱町五畝八歩の林に、⑭は同様壱反弐畝歩ある林にかかるもの。⑮は弐反三畝七歩の芦野に反当二〇文の割でかかるもの。⑯の芝稲干場銭は、稲干場につかっている芝地壱町八反五畝四歩にかかるものだが、そのうち壱反四畝歩は開いて畑になっているので、この分は反当永五〇文、残りは反当永五文づつと計算したものである。

 ⑰の御殿山御林内櫨絞(はぜしぼり)所拝借地冥加永というのは天保七年(一八三六)に神宝方棟梁の家城信七郎という者が、御殿山の地内に櫨絞所をつくるというので、四九五坪を借り受け、また九六〇坪ほどのところへ、櫨の苗を植えたいと願い出て許可され、その冥加金として差出すことになったものである。

 ⑱の高輪空地冥加永というのは、品川宿の北側、高輪海岸あたりに空地があり、それに目をつけた江戸橋本町新六と、本所松井町の権右衛門という商人二人が、一〇ヵ年に二、六〇〇両を上納するから、ここに定小屋を建てさせてほしいと幕府に願い出た。この願出を受けた勘定奉行の石谷備後守清昌は、この願いを許可した場合、隣接地の品川宿に障りがあるかどうかを聞いてきたので、「この場所は昔から火災その他非常時に、品川宿のものが逃げる緊急避難場所に使っているので困る」と返辞した結果、新六たちの願出は不許可になったが、品川宿の緊急避難場所として今後もこの土地を確保するのであれば、というので年々永二五貫文を品川宿から上納することになったものである。なを石谷備後守が勘定奉行であったのは、宝暦九年(一七五九)十月から安永八年(一七七九)四月までであるので、この冥加永が始まったのは、この間のことであろう。