(4) 品川区地域の高掛物

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 つぎに品川地域の高掛物(たかかかりもの)についてみよう。高掛物というのは、江戸時代の付加税の一種で、天領(幕領)・私領をとわず、その村高に応じて一定量賦課された。天領においては、高掛三役といわれる伝馬宿(てんまじゅく)入用・六尺(ろくしゃく)給米・御蔵前(おくらまえ)入用、大名・旗本領においては夫米(ぶまい)・夫金(ぶきん)・糠藁代(ぬかわらだい)など各種のものがあった。当地区は天領であるので、高掛三役が問題である。

 下蛇窪村で高掛三役が最初に顔を出すのは、享保五年(一七二〇)の年貢免状からである。ただし三つが同時に顔を出すのではなく、御伝馬宿入用米が最初である。すなわち同年の免状の最後に

 一、米壱斗九升三合                御伝馬宿入用米

とある。御伝馬宿入用は「最初宝永四年(一七〇七)五街道の宿駅に宿手代を置いた際に、これに給米を支給するために賦課したものであるが、正徳二年(一七一二)宿手代を廃止した後もつづいて徴収し、それを五街道の問屋・本陣などに対する給米、そのほか宿駅の費用にあてることとした。その課率は年々不同であったが、享保六年これを一定して高百石につき米六升と定め、毎年浅草米廩へ納入させた」(『日本経済史辞典』)ものであるが、下蛇窪村では享保五年から賦課されたのである。このときの御伝馬宿入用米の一斗九升三合は、同村が村高二七五石余だから一〇〇石につき六升とすれば、一斗六升五合となるわけで、翌六年に定められた規定より多い。しかし享保八年分を見るとまさに一斗六升五合となっており、規定通りとなっている。享保六年分の年貢免状はなく、また同七年のものも、関係部分が判読できなくて断定することはできぬが、享保六年から高一〇〇石につき米六升という規定通り徴収されたとして大過ないであろう。

 この御伝馬宿入用一斗六升五合はずっと弘化元年(一八四四)までつづき、同二年に一斗六升六合と、一合だけ増加して明治元年(一八六八)まで続く。この間明和七年(一七七〇)に一石四斗九升、同八年に一石三斗三合、天明三年(一七八三)に一石四斗六升、天保七年に一石四斗一升というように規定の量より少ないのは、凶作のため本途物成が減免されたのと併行して、高掛物である御伝馬宿入用も減免されたからである。ただし本途物成に減免があれば、御伝馬宿入用もかならず減免されるといった関係ではない。

 つぎに弘化二年に、それまで一斗六升五合であった御伝馬宿入用米が、なぜ一斗六升六合というように、一合増したかということであるが、それはそれまで二反四畝一六歩あって、野銭永四九文が課せられていた野地のうち、一反五畝八歩が天保十四年(一八四三)に見取場(みとりば)にくみこまれ、そのうち一反三畝歩のところが弘化二年(一八四五)から七斗六升四合と高に結ばれて、下蛇窪村の村高に追加組み入れられたからである。つまり御伝馬宿入用米の一合の増加は、七斗六升四合の高に見合うものである。

 つぎに高掛三役のあと二つ、六尺給米と御蔵前入用とについてみよう。まず六尺給米というのは、幕府の輿(かご)かき、または台所に使用する人夫に支給する米を、天領村々に割掛けたものである。はじめのころは、実際に人夫を村々から差出させていたようであるが、いつの間にか人夫は幕府で雇い入れ、そのかわりにこの人数に対する給米を、各村の高に割付けて徴収することとした。したがって其の額も不同であったが、享保六年に高百石につき、米二斗と定めたものである。

 つぎの御蔵前入用というのは、浅草にある幕府の米蔵の諸入用にあてるために賦課したもので、元禄二年(一六八九)以来高百石につき、上方は銀十五匁、関東は永二五〇文の率で納入したものである。

 下蛇窪村において六尺給米の初出は享保十七年、御蔵前入用の初出は元文五年(一七四〇)である。なぜ下蛇窪村のばあい御伝馬宿入用は享保五年から、六尺給米は同十七年から、御蔵前入用は元文五年から賦課されるようになったかを、現存の史料からは判定することはできない。

 さて六尺給米および御蔵米入用の初出のところを、年貢免状から抜いてみると次の通りである。

一、米五斗五升壱合             六尺給米

 

一、永六百八拾九文             御蔵米(前)入用

 

 さて六尺給米および御蔵前入用の賦課規定は、六尺給米が高一〇〇石につき米二斗、御蔵前入用が高一〇〇石に永二五〇文であるから、これを下蛇窪村の村高二七五石三斗三升六合に掛け合わせてみると、

  六尺給米    五五〇・六七二合

  御蔵前入用   六八八・三四文

ということになる。したがって年貢免状に六尺給米五斗五升壱合とあるのは、〇・六七二合を切りあげて一合としているわけである。ただし明和二年(一七六五)・天明二年(一七八二)・同四年のみはコンマ以下を切り捨てて、六尺給米五斗五升としている。つぎの御蔵前入用の場合も、六八八・三四八文のコンマ以下を切り上げて得られる数字を賦課している。ただしこの場合も明和元年(一七六四)から寛政二年(一七九〇)までは、コンマ以下を切り捨てて六八八文としており、寛政四年以降は切り上げも、切り捨てもせずに、コンマ以下もいちいちひろって六八八・三文としている。なお弘化二年(一八四五)に七斗六升四合の高が、新田分として村高に追加されるが、それに応じて、六尺給米・御蔵前入用が計算し直されることは、御伝馬宿入用の場合と同様である。

 高掛三役の計算のしかたから見る限りでは、吉宗政権はがめつく、田沼政権はおおようであり、松平定信政権はその中間であるということになる。

 高掛三役のうち、御伝馬宿入用は毎年賦課されるが、六尺給米と御蔵前入用の場合とはそうでない。

 

  元文五年(一七三六)

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

一、米五斗五升壱合             六尺給米

一、永六百八拾九文             御蔵前入用

   寛保元年(一七四一)

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

   寛保二年

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

一、米五斗五升壱合             六尺給米

一、永六百八拾九文             御蔵前入用

   寛保三年

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

 

 寛政一年(一七八九)

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

一、米壱合                 六尺給米

一、永壱文                 御蔵前入用

  寛政二年

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

一、米五斗五升壱合             六尺給米

一、永六百八拾八文             御蔵前入用

  寛政三年

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

一、米壱合                 六尺給米

一、永壱文                 御蔵前入用

  寛政四年

一、米壱斗六升五合             御伝馬宿入用

一、米五斗五升壱合             六尺給米

一、永六百八拾八文             御蔵前入用

 

 前記二つの例のように隔年ごとに正規の計算量がかかり、その裏の年は全くかからないか、かかっても米一合、永一文といった極少量となっている。その理由を調べてみると次のようになる。寛政五年の年貢免状の高掛三役の部分をみると、

一、米壱斗六升五合              御伝馬宿入用

 掛ケ高三斗三升六合

  外ニ高弐百七十五石隔年助郷高除く

一、米壱合                  六尺給米

 掛ケ高

  外ニ右同断

一、永八文                  御蔵前入用

とある。下蛇窪村で助郷を隔年に勤めていることは、「課役」のところで述べておいたが、六尺給米と御蔵前入用とは、この助郷役と関係があるので、助郷役を勤めた年は、その代償として六尺給米・御蔵前入用が免除されていたのである。ただし下蛇窪村の村高は二七五石三斗三升六合であり、助郷負担高は二七五石分であるから、助郷を勤めた年でも、村高から助郷高を引いた残りの三斗三升六合に対しては、規定の六尺給米・御蔵前入用がかかり、前者は米一合、後者は永八文に当たるというのが、この記事の示すところである。

 なお下蛇窪村には慶応三年(一八六七)までは江戸幕府の代官が、また翌明治元年から同四年までは、品川県庁が出した年貢免状があるが、高掛三役があるのは明治元年分までで、以後はそれが見られない。

 つぎに谷山(ややま)村について、安永四年(一七七五)の年貢免状をみると(資一四三号)、

一、米六升六合                御伝馬宿入用

一、米弐斗弐升壱合              六尺給米

一、永弐百七拾六文              御蔵前入用

とある。同村は村高が一一〇石三斗九升一合であるから、この量は御伝馬宿入用が一〇〇石につき米六升、六尺給米が二斗、御蔵前入用が永二五〇六文いう規準で計算すると、規定通りの量ということになる。ただし同村も隔年に品川宿助郷を一〇八石分勤めているので、六尺給米と御蔵前入用については、その分が除外され、残りの二・三九一石に賦課されるので、その年は

一、米六升六合                御伝馬宿入用

一、米  五合                六尺給米

一、永  六文                御蔵前入用

ということになる。


第155図 年貢皆済目録

 このような状況は、品川区域の他の天領村々の場合も同様であったようで、文久三年(一八六三)の二日五日市村(高九六・五二二石)の年貢免状をみると

一、米五升九合                御伝馬宿入用

 掛高四石八斗八升六合

  外 高九拾四石 隔年助郷当亥勤高

    高四升五合 当亥御用地渡高 免除

一、米壱升                  六尺給米

 掛高

   外高右同断

一、永拾弐文弐分               御蔵前入用

とあるように、六尺給米・御蔵前入用については、隔年に勤める助郷役の代償として、助郷高に相応する高が、隔年に賦課基本高から免除されている。

 なお「三役高掛割帳」(立正大学蔵「利田家文書」)より、二日五日市村の高掛三役および国役銀を表示すると、上表のようになる。元治元年は隔年に助郷役を負担し、その代償として助郷負担高を村高から引き去ったものにしか、その年は六尺給米・御蔵前入用を負担しないという、この地方のルールからいえば、当然六尺給米は〇・一九八石、御蔵前入用は、永二四七・三文となるべきであるのにそうでないのは、幕末諸事多端のあおりをうけて、当年も助郷役を持たされた結果と見るべきであろう。

第34表 二日五日市村高掛三役および国役銀表
御伝馬宿入用 六尺給米 御蔵前入用 川々国役銀
万延1年(1860) 0.059 0.198 247.3 493.
文久1年(1861) 0.059 0.010 12.3 493.
2年(1862) 0.059 0.198 247.3 493.
3年(1863) 0.059 0.010 12.3 165.1
元治1年(1864) 0.059 0.010 12.3 493.

 

 なお〝川々国役銀〟というのは、宮殿の修造・堤川の修築・道路の修繕などで臨時の大きな資金需要があるとき、武蔵国とか伊予国とか特定の国を定めて、金何両(または銀付匁)といったように、金を割掛けて収納するものを国役金(または銀)といった。江戸時代においては大河川堤防の修築費・朝鮮来聘使および琉球人参向帰国道中諸費・日光法会参列道中諸費・禁裏御造営費などがその主なもので、とくに河川修築の場合が一番多かった。川々国役銀とはまさにこれである。

 つぎに南品川宿のものをみると、寛政四年(一七九二)分として

御伝馬宿入用     米三斗弐升五合

六尺給米       米六合

御蔵前入用      永七文四分

となっている(資一四四号)。これは南品川宿の高が五四一・七〇二石であり、六尺給米および御蔵前入用については、五三八・七五四石分が宿場町だというので年々高引きされ、残る二九四八合分に規定のものが割掛けられるからである。