重い課役

573 ~ 574

第(1)項の「江戸時代の貢租」のところで概説しておいたように、江戸時代に入ると庶民から直接労働力の提供を求める課役は、江戸時代に入って政情が安定するため、それまでの課役のもっとも大きな部分を占めていた軍夫(ぐんぷやく)役の必要がなくなったこと、また城下町の建設、大河川用水土木工事など、普請役を大量に必要とする工事が、近世初頭のある時期にほぼ終わったため、段々とその数と量を減じ、四代将軍家綱の慶安・寛文期(一六四八~一六七三)ころになると、わずかに交通労働部門、すなわち助郷役などとして残るのが一般である。

 しかし品川区域村々の場合は、江戸に近いという特殊事情のためか、この課役が非常に多方面に残っており、そのことが、江戸時代一般村々では考えられないほど、庶民生活を圧迫していたと考えられる。この地域では課役の持つ比重が非常に重いのである。