品川宿

574 ~ 575

貢租の面から見た品川区域は、宿場町である南北両品川と、それ以外の村々、すなわち農村部とにわかれる。まず南北両品川は宿場、それも東海道第一宿であるので、宿場町としての義務課役がある。東海道では各宿ごとに人足一〇〇人、馬一〇〇匹を用意して街道交通に備える定(伝馬・歩行役)であるが、南北品川ではこれを馬(伝馬役)については

五〇匹                 南品川

五〇匹                 北品川

というように、南北両品川では半々に分担し、南品川ではこれを宿内の伝馬百姓六九・五軒に一軒につき馬〇・七二匹ずつ、また北品川では伝馬百姓六七・五軒に一軒につき馬〇・七四匹の割合で負担させている。

 一方人足一〇〇人(歩行役)については

八五人                 歩行新宿

八・五人                南品川宿

二・五人                北品川宿

四人                  海晏(かいあん)寺ほか四ヵ寺門前

というように分割分担している。なおその詳細は、歩行新宿では同町の歩行役百姓九五軒に対し、一軒に〇・八九五人ずつ、南品川宿では歩行役百姓八軒に対し一軒一人ずつ、残る半人分を南品川宿の惣百姓で分担、北品川宿では、宿内六七・五軒の伝馬百姓にこれを分割するという形で負担、寺社門前四つで四人を受持つ分については、海晏寺門前が二・五九四人、品川寺門前が一・〇九人、海雲寺門前が〇・二五五人、長徳寺門前が〇・〇六一人というようにおのおの分割分担している。

 以上一〇〇匹、一〇〇人の伝馬・歩行(かち)役が品川宿の宿としての主要課役であるが、それを補足するものとして歩行小役(こやく)という役があった。これは品川宿から関係村々へ助郷人馬触状や、そのほかの御用状の類を持って歩く役で、南品川宿で二六人、北品川宿で二一人、小高百姓のうちからこれを勤めた。

 このほか将軍が品川筋・浜御庭・江戸川にお成りの節は海上取締まりのため番船を出し、御城米船が難破したときと、近国に出水があったときは、御救御用船(品川宿では一〇艘)を、また流人を乗せた船が出るときは、その引船番船を差出す定めになっていた。

 このほか南北両品川をつなぐ南北境橋(目黒川にかかっている)の橋普請、品川宿内の海辺石垣は品川宿単独でではないが、人足を出してこれを補修保全する必要があった(「天保十四年宿方明細書上帳」資一七二号)。