農村部

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品川宿を除く品川区地域は全部、江戸時代における地域区分の町に対する在、すなわち農村分にあたる。この部分については、その村の条件、支配の差異などによって若干の差もあろうが、そこで受持つ課役にはかなり共通したところが多いと思われるので、一括して扱うことにする。

 下蛇窪村の文政七年(一八二四)の課役をみると次のようになっている。

① 御拳場場所持人足

② 御成之節御焚出場御用人足

③ 御成之節御道具持送リ持返シ人足

④ 駒ケ原諸御用人足

⑤ 御三卿様御出之節御用人足

 これは全部この地域の村々が、将軍家の〝御鷹場(おたかば)〟になっていたためかかってきた課役である。

 幕府は江戸周辺約五里内にある村々を御鷹場として特別の扱いをした。この鷹場は将軍家御用のものとして、将軍の鷹狩、また鷹狩を通して大名と交際する場として利用するとともに、天領・寺社領・大名旗本領というように、支配の錯雑していた江戸周辺村々を、鷹場管理という名目で、これを幕府が一円支配するという治安維持というねらいもあって設置されたものである。

 ①は鷹場のことを拳場(こぶしば)ともいうが、それを狩に便利なように管理整備するための人足、②・③はここに将軍が御成りになるときの炊き出し場御用のための人足および将軍御成りのときの道具を運搬するための人足である。⑤は将軍家が御鷹場を利用しないときに、御三卿に貸すことがあるが、その御三卿が利用するときに出す人足である。

 ④の〝駒ケ原〟というのは駒場原のことで、現在東京大学教養学部のあるところである。駒ケ原は人の背丈に達する笹が一面に生え、所々に松林が茂った約一六万坪の面積をもつ広大な原野であった。近世前期においては、ここは上・中・下目黒村の入会秣場(いりあいまぐさば)で、村民の自給的農業経営のためには、なくてはならぬ場所となっていた。鷹狩は五代将軍綱吉の〝生類憐み令〟と関連して一時中止されていたが、狩好きの徳川吉宗が紀州から入って八代将軍になると早速再興し、廃止されていた江戸近郊の御鷹場を、前よりも整備された形で再興した。このときこの駒ケ原に棲息するたくさんの雉子・鶉などの野鳥に目をつけた吉宗は、これを公収して御狩場とし、以後この地は将軍家のもっとも主要な狩場の一つとなった。

 ついで寛保二年(一七四二)には、碑文谷原が幕府の鶉場と指定され、ここに鶉部屋がおかれ、係役人がつめて駒ケ原の鶉狩に備えて、鶉のあたため飼いをした。

 これらの土地を入会地として利用していた目黒三ヵ村は、その利用を禁止されただけでなく、一町余の鳥飼付畑の経営まで命ぜられ、また駒ケ原で狩があるからといって、品川区地域村々まで、その人足に狩り出されたわけである。将軍吉宗を評した〝物揃(ものそろえ)〟に

   上(将軍)の御好きなもの

       御鷹野と下の難儀

というのがあるが(『享保世話』)、鷹場の整備だといってはかり出され、将軍の鷹狩りだといっては、また人足や勢子(せこ)に狩り出された江戸周辺村々の農民にとって、まさに狩好きの将軍は迷惑至極・難儀至極の存在であったろう。

⑥ 宿場圦橋御普請助合人足

⑦ 品川御殿山下御鉄炮稽古場補理人足

⑧ 品川宿江御鷹匠様御泊リ之節水夫人足

⑨ 品川東海寺夜番人足

⑩ 品川東海寺近辺出火之節火消駈着人足

⑪ 助郷人足

 ⑥の宿場圦橋(いりはし)御普請助合人足は、品川宿内の南北境目橋および宿内海辺石垣の補修保全のための、助合として出す人足である。⑦は品川御殿山下に幕府の鉄砲の稽古場があったが、それを保全するための人足である。⑧はむしろ①~⑤までのグループに入るべきものであるが、幕府の鷹匠が品川宿に泊まったときの人足で、村高に応じて関係村々が負担した。

 ⑨・⑩は品川東海寺に関するものである。下蛇窪村においては品川東海寺の夜番人足として、月に六人ずつの割合で年七二人(閏年は七八人)の人足を出し、また東海寺近辺に、火事があった場合は火消駈着人足として一六人ずつ差出すことになっている。

 品川東海寺というのは、将軍家光の命によって、僧沢庵が寛永十四年(一六三七)着工、同十五年に落成した禅宗臨済派の寺である。東海寺夜番というのは、寛永十六年から近在村々より、毎夜九人ずつの人足を差出させ、境内四ヵ所に設けられた番屋に詰めて夜番をおこなうことをいう。そのはじまりは、普請のさいの材木などの監視のための夜番からおこったものだといわれているが、夜番に狩出される村の人々は、沢庵禅師がここから逃げ出すのを恐れた幕府が、その監視のために番をつけたのが始まりだと信じ、東海寺夜番のことを〝沢庵番〟と呼んだといわれている。また近火のさいの駆付人足は近郷二二ヵ村より計五〇〇人が駆付けるようになっていたものである(『品川町史』中巻八三九ページ)。

 ⑪の助郷人足は、下蛇窪村では高二七五石分の分担高で、隔年に勤めることになっていた。この村では、当文政七年は七月から翌六月までの一年が休番になっていた。

 以上は文政七年六月の下蛇窪村の「村差出明細書上ケ帳」から整理したものだが、同村の寛永十一年七月の「村方之儀明細書上帳」をみても、前記課役が同様存在したことがわかる。

 つぎに下大崎村についてみよう。嘉永三年(一八五〇)正月の「村方明細書上帳」によると、この村の負っている課役は次のようである。

① 御拳場場所拵人足

② 駒場原場所拵人足

③ 将軍御成之節焚出御賦御茶方御用

④ 将軍御成之節御道具持出持返し人足

⑤ 御三卿様御出之節御用人足

⑥ 助郷人馬。これは定助郷で高三一二石分を勤める。但隔年

⑦ 品川東海寺夜番人足

⑧ 品川東海寺近辺出火之節駈付火消立人足

⑨ 品川宿江御鷹匠方御休泊之節水夫人足

⑩ 品川御殿山御鉄炮御稽古小屋場補理人足

⑪ 品川領九ケ村圦橋御普請助合人足

 若干順序・呼名がちがうが、下蛇窪村の場合と同様である。他の村々も負担量がちがうだけで、同様の課役を負っていたと考えてよいであろう。なお下大崎村では、品川東海寺夜番人足月七名、近火時駆付人足一八人というように、下蛇窪村より少しばかり多くなっている。