(6) 品川区地域の特殊上納物

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 天保末年の資料にもとづいてつくられた「東海道宿村大概帳」のなかに「大井村・三大森村・不入斗(いりやまず)村では江戸の御納戸御用として、蚯蚓(みみず)・螢(ほたる)・松虫・杉之葉などを時々上納するとのことである」と書き記している。

 後北条氏時代の史料をみると〝御菜鯛〟とか〝浜塩鯛〟とかいう雑租があるが、戦国時代までは貢租とは本来、その土地で採れたものを、そのまま現品で領主に納めるのが一般で、御菜鯛というのは、北条氏の食膳にのぼせる御菜の鯛という意味であり、鯛のとれる伊豆海岸村々から、生きたまま納入したものである。

 しかし江戸時代になると、このような現物納の年貢形態は米麦など主穀に限られ、あとは金納化するなどして姿を消すのが一般である。この品川区域村々でも、先述したように貢租は米に、雑税は貨幣に統一されるのである。

 しかしこの地方には、まだこのほかに蚯蚓・螢・松虫・鈴虫・杉の葉等の代金納化されない特殊な臨時現物納の品品があったのである。しかもそれは「東海道宿村大概帳」にあるように、大井村・三大森村(北大森村・東大森村・西大森村の三カ村である。)・不入斗村のみでなく、ほとんど全品川区域村々に、また納入品数も蚯蚓・螢・松虫・鈴虫・杉葉だけでなく、螻虫(けらむし)・生たんぽぽ・赤蛙・螢籠・えびつる虫・よもぎ・はこべなど非常に多様な品々がみえている。以下それらについて文化八年(一八一一)の「武州大崎御用留」(東京大学法学部蔵)からみてみよう。

 (イ) 螻虫 文化八年三月に、この地域の触頭(ふれがしら)である大井村の大野五蔵にたいし、江戸城の本・西の両丸の御小納戸(おこなんど)で入用であるからと、同十日から二十四日までの十五日の間、毎日螻虫一、五〇〇匹(ただし四〇匹は小けら)ずつを、朝の五ッ時(今の八時ころ)に江戸馬喰町(ばくろちょう)の鷹野役所まで納めるよう、請書と日割帳を差出せとの命令がきた。毎日一、五〇〇匹ずつ一五日間といえば、総計二万二五〇〇匹になるが、これを触頭では、

三月十日

  螻虫 一、五〇〇匹                   大井村

三月十一日

  同  一、五〇〇匹                   大井村

三月十二日

  同  一、五〇〇匹                   大井村

三月十三日

  同  一、五〇〇匹                   大井村

三月十四日

  同  一、五〇〇匹                   大井村

三月十五日

  同    七六五匹                   大井村

  同    二五七匹                   下蛇窪村

  同    四七八匹                   二日五日市村

三月十六日

  同  一、一四〇匹                   下蛇窪村

  同    三六〇匹                   上蛇窪村

三月十七日

  同    五八〇匹                   上蛇窪村

  同    九二〇匹                   戸越村

三月十八日

  同  一、五〇〇匹                   戸越村

三月十九日

  同  一、五〇〇匹                   戸越村

三月二十日

  同    七三八匹                   戸越村

  同    七六二匹                   桐ケ谷村

三月二十一日

  同  一、〇六七匹                   桐ケ谷村

  同    四三三匹                   上大崎村

三月二十二日

 同  一、五〇〇匹                    上大崎村

三月二十三日

  同    二四六匹                   上大崎村

  同  一、二五四匹                   下大崎村

三月二十四日

  同    三三一匹                   下大崎村

  同  一、一六九匹                   居木橋村

というように、関係各村々に割付けて上納するように手配した。ではこの螻虫を何に使ったかであるが、三鷹市牟礼の高橋家に残る文化二年の「御用控帳」によると、同年牟礼村から二、〇〇〇匹、中野村から一、一〇〇匹を納入しているが、それには「両御丸様御飼鳥御用」とあるので(『三鷹市史史料集』第一集)、本丸・西丸に飼っている飼鳥の生餌に用いたことがわかる。

 なおこのときより六〇年ほど前の宝暦四年(一七五四)六月に品川領の村々にたいして、同月十八日から七月十八日までの三十日にわたって、螻虫を納入するようにとのことであった。さっそく採り集めて十八日に納入したところ、「小さすぎて用にたたないから取り替へるように」とのことであったので、「今の螻の大きさは全部これくらいのもので、いくら取りかえても大振りにはなりませぬ」といったが、役所では一向に取り合わないので、ともかくいわれた通りに取りかえて、十八日分は納入した。しかし螻は大体夏の土用にかかると半分は死んでしまって、あらたに幼虫が土中に育つものである。そして土用明け三十日余もたつと、大きくなって用立つようになるものである。それゆえに、「小さいのでもよいというのであれば、なんとか御用立てますが、もし大振りのものでなくてはならぬというのでしたら三十日余日延べをしてほしい」と願書をさし出したところ、翌二十日になって「願の通り一応納入を中止するが、何月何日ころになったら大振りの役に立つ螻虫を納入できるか、詳細な書付けを明朝までに差出すように」との役所からの命令であった。これに対して品川領の触頭である大井町名主五蔵より、七月二十五・六日ころなら結構ですと返辞を出している(『品川町史』上巻二七六ページ)。

 螻虫の御用は毎年ではないにしても、かなり古い時期からあったものであろう。

 (ロ) みみず つづいて三月十八日になり、こんどは前と同様、両丸御小納戸で入用だからというので、蚯蚓(みみず)を納入するようにとの指示がきた。それによると蚯蚓一、七〇〇筋、その内分けは太みみずを六五〇筋・中みみずを八〇〇筋・細みみず二五〇筋を来る三月二十五日より四月十日までの十五日間、毎日螻虫の場合と同様に納入するようにとのことであった。つごうみみず二万五五〇筋となるが、大井村の触頭大野五蔵方では、先の螻虫の場合と同様、これを村々に割当てている。

 ところが二十八日になって、細みみずは一日一五〇筋であったのを一〇〇筋増して二五〇筋に、また四月九日になって中みみずを二〇〇筋増して一、〇〇〇筋ずつというように追加を命じてきている。

 (ハ) 生たんぽぽ 四月二十九日になって江戸城中の御膳御用にというので、生たんぽぽを一日につき壱尺の縄でしめた束を八把ずつ五月一日より同十五日までの十五日間、これも毎日朝五ッ時(今の八時ころ)までに鷹野役所まで提出を命ぜられた。大井村触頭では、これを前の螻虫・みみずと同様村々に割当て納入している。御膳御用というのであるから、江戸城中の食膳にのぼせたのであろう。

 (ニ) 螢 六月に入って江戸城本・西両丸の奥御用というので、この品川地区に五〇〇匹の螢が割掛けられてきた。同月十七日の朝(あけ)の六ッ半(今の七時ころ)に鷹野御役所に一括納入する必要があるというので、触頭では十六日の暮(くれ)六ッ半(今の夜の七時ころ)までに、できるだけ大きな螢をえらんで自分の処に持ってくるよう指示している。関係村々への割当数は次のようである。

 大井村    一八四匹

 下蛇窪村   三〇匹

 上蛇窪村   二一匹

 戸越村    一〇三匹

 桐ケ谷村   四一匹

 上大崎村   四八匹

 下大崎村   三五匹

 居木橋村   二六匹

 二日五日市村 一一匹

なお螢の場合は、いままでの螻虫・みみず・たんぽぽなどとちがって、天候によって左右されるので、「採取提出の当日に風雨などがあることもあり得るので、一両日以前から段々採り集めておいて、羽など傷まぬよう管理するよう」指示している。

 (ホ) 赤蛙 同年七月四日に鷹野役所より大井村の触頭にたいし、江戸城中の御膳御用として入用なので、七月十一日より二十日までの十日間、毎日朝六ッ半時に赤蛙を二〇匹ずつ納めるよう申し触れてきた。色は黄ばんだもので、大きさは足をのぞいて二寸ほどという指定があった。品川地区村方では、一日に指定の二〇匹に予備の六匹を加えて二六匹、十日間二六〇匹として次のように村割した。すなわち、

七月十一日より十三日まで

  一日二六匹ずつ                      大井村

七月十四日

   一八匹                         大井村

    八匹                         下蛇窪村

七月十五日

    八匹                         下蛇窪村

   一一匹                         上蛇窪村

    七匹                         戸越村

七月十七日

   二〇匹                         戸越村

    五匹                         桐ケ谷村

七月十八日

   一六匹                         桐ケ谷村

   一〇匹                         上大崎村

七月十九日

   一五匹                         上大崎村

    六匹                         居木橋村

    五匹                         二日五日市村

七月二十日

   一八匹                         下大崎村

    八匹                         居木橋村

さてこの赤蛙をどうするかであるが、御膳御用とあるから食用にすることはたしかである。赤蛙がある種の薬餌(やくじ)として、わが国では古くから用いられていることはよく知られているが、問題は江戸城中の誰が食べるかである。そのことは次の点からある程度推測できる。すなわち、従来の螻・みみず・生たんぽぽ・螢等々、螻虫は飼鳥の餌に、螢は営中婦女のたのしみのため、また生たんぽぽは明らかに江戸城中の食用のためであるが、これらの場合とはべつに、この赤蛙の納入を命じた触には「大切御用の品故、無疵(むきず)の分を入念に改めて納めるよう」という文言があり、また触頭から各村々に割当てた触書に特に下ケ札をつけ、それに「この御膳御用は容易ならざる御用なので、買って納めるなどは絶対にしてくれないよう。かならず百姓が自身出掛けていって赤蛙を取り集めるように。」という注意をしている。このことから赤蛙を食べたはずの主は、将軍かまたは将軍家に関係ある人々であったろうことが知られる。

 赤蛙というのは、疳(かん)の薬として古来つかわれているので、この場合当時病気だった将軍の第十四女で、五歳の岸姫のためのものだったと考えられる。もっともこの赤蛙は、関係者がこのように念を入れたにもかかわらず、どうもあまり評判がよくなかったらしく、七月十八日と同十九日には、本来は二六匹納入すべきところを一五匹と数をへらすようにいってきている。なお岸姫は同月二十八日になくなっている(『徳川実紀』)。

  (ヘ) 松虫・鈴虫・螢籠代 天保末年のことを書いた「東海道宿村大概帳」に「大井・三大森・不入斗村からは御納戸御用として蚯蚓・螢・松虫・杉之葉などを時々上納するとのことである」という記事があることは、本項の初めに記したところである。しかし、それより先の文化八年(一八一一)の「武州大崎御用留」をみると、前記品々のうち松虫はすでに金納になっていたことがわかる。すなわち七月二十八日に当地区触頭から、江戸本・西両丸奥御用として納入する松虫鈴虫買上代と螢籠代(ほたるかごだい)を割りつけるから、来る八月十四日までに納入するようにというので、

松虫鈴虫買上代 銭二貫九〇六文

螢籠代     銭  四四八文

 〆 銭三貫三五四文

以上の銭を、

大井村     壱貫弐百三拾弐文

下蛇窪村    弐百八文

上蛇窪村    百三拾八文

戸越村     六百九拾弐文

桐ケ谷村    弐百七拾文

上大崎村    三百廿四文

下大崎村    弐百三拾五文

居木橋村    百七拾壱文

二日五日市村  六拾八文

というように割付けている。これなど、ある時期までは松虫・鈴虫を実際に村々で採り、また螢籠を作って現物で納入していたのを、この地区では、もはやそれほど松虫・鈴虫は採れなくなったというので、代金をもって納入するようになったのであろう。ともかく江戸城の奥に住む婦女をたのしますため、江戸周辺の村々百姓が、螢採りや松虫・鈴虫採りなどに使われていたわけである。

 (ト) ゑびつる虫 七月廿八日当地区触頭は江戸城中御小納戸御用というので、ゑびつる虫一、五〇〇本を関係村々に割り付けている。なお八月六日になってふたたび触頭から「ゑびつる虫は九月節(せつ)(寒露)より後に取ったものでないと役に立たぬといってきたので、当月二十日以後より取り集め、九月九日迄に持参するように」という注意書が触出されている。

 (チ) よもぎ・はこべ 七月晦によもぎを一六把・はこべ一〇把(ただしうち五把は実のついたもの)を、江戸城御広敷御用として来たる八月五日より同二十八日までの二四日間、毎日朝六ッ半時(今の七時ころ)に江戸馬喰町の鷹野役所まで納入するよう伝えられている。全部を合計すると蓬(よもぎ)は六二四把、はこべは二四〇把ということになるが、触頭ではこれを例のごとく関係村々に割り付け、「よもぎ・はこべともに例年通りに入念に一つ一尺把に仕立て、指定時刻におくれないよう朝未明のうちに村を出立して納入するよう」にと指示している。

 しかし八月六日(納入二日目)になって蓬は六〇把といったが二把ふやして六二把にして、しかも納入刻限は毎朝正六ッ時(今日のほぼ朝の六時だが、正確にはちょうど夜明け時という意)に御役所に納入するように厳しい申し達しがあったからというので、触頭から関係村々に「夜の八ッ時(今の午前二時ごろ)に村を出発、そのとき提灯(ちょうちん)持ちの人足をつけ納入の品は二人の人足に持たせ、明け六時(夜明けの時刻)より早めに馬喰町御役所に着くように、絶対に遅刻しないように」と注意書をまわしている。今日とちがって歩いてゆくのだから正六ッ時納入ということであれば、午前二時ころには村を出なくてはならなかったわけである。

 (リ) 杉の葉 九月九日にいたって江戸本・西両丸御小納戸および御広敷(おひろしき)および蚊遣(かやり)御用のため、杉の葉を三尺縄〆三把(ぱ)・長七寸把一〇把・中把九〇把・青枯小把杉の葉を一五〇把・蚊遣御用杉の葉一把ずつを、来る十四日から十月三日までの二十日間、毎朝五ッ時(今のほぼ八時ごろ)に馬喰町の御鷹野御役所に納めるようにとの触があり、触頭より関係村々に割り当てている。

 「武州大崎御用留」によると、文化八年に前記村々が江戸城御用として、現物で納めた品々は以上のように多品目にわたっている。もちろん、これは大井村を中心とする触組に属する前記村々についてしかわからないが、江戸周辺の村々については、同様品々を納めている例があるから、品川宿を除く他の品川区域村々も、多分同様であったであろう。

 ただこれらの諸品の納入が、江戸時代全期間を通じてのものか、また一時期にみられた現象であったのかについては、いまのところ定かではない。

 関係村の一つである下蛇窪村の「明細書上帳」(「伊藤家文書」)をみると、寛政十一年(一七九九)七月のものには村の諸負担を書記したところに、前記虫草類についての記載がないが、文政七年(一八二四)のものになると、「両御丸(江戸城本丸・西丸)御小納戸御用ニ付、虫類採草并御広敷御用杉之葉等御上納仕候」という一項目が入っている。このことから前記虫草類に関する御用は寛政度にはなくて、文化・文政期、つまり将軍家斉が中心となって江戸城大奥に、豪奢な消費生活を展開した時期に新設された、迷惑な御用であったと断定することはできない。しかし、御用の品々の多くが、江戸城大奥の婦女をたのしませるためのものであったことから、それを家斉と結びつけることもかならずしも無理ともいえない感がある。

 品川区域村々の住民は、年貢をはじめ助郷役等、江戸時代農村が普通納入する負担のほかに、江戸城に近いという理由から、螻虫・みみず・螢・赤蛙・ゑびつる虫等々の動物を、しかも大小の指定にしたがって、また傷めないよう納入しなければならないのだから大変な負担であったろう。しかも納期がほとんど明け六ッ時、五ッ時といったように早朝に指定されていたので、それに間に合うには、真夜中に近い時間に村を出る必要があって、そのことも苦痛を増していたろう。

 それにしても家並が無限に続き、ほとんど緑の見えない今日の品川区地域で、昔は一日に一、五〇〇匹もの螻虫やみみずが採れ、また螢や赤蛙を捕えて、江戸城御用に供することができたとは夢のような話である。