品川宿が交通上で重要な地位を占めていたことは、すでに中世以来のことであった。江戸時代に書かれたものには、御殿山下から品川宿までの一帯は、すべて海浜の洲(す)で、古い街道は、西から来れば矢口村から新井宿(あらいじゅく)(大田区)に出て、それから大井村(品川区)のうちの権現台(大井権現町)あたりを通り、居木橋(いるきばし)の一町ほど下で目黒川を渡って下高輪の方面に通じていたものであったとしている。これは、今の東海道線よりやや西を通っていたことになる。しかし、妙国寺などの建立は古く、小田原北条氏時代には、すでに品川が宿場の形態を整えており、かつ品川宿が南北に分かれていたことも戦国時代からのことである。ただ街道がどこを通っていたかは明瞭ではないが、永享一〇年(一四三八)の憲泰の妙国寺宛ての寺領寄進状によると、寺地の西には大道が通り、東は海であったから(資五五号)、近世の東海道の道筋ではなく、今の京浜急行電鉄の通っているあたりではなかったかと推測される。これは、品川神社・荏原(えばら)神社・海晏(かいあん)寺などの所在からもそう思われる。さて、近世の東海道、すなわち荏原神社・妙国寺・品川寺(ほんせんじ)・海晏寺等の東側の海ばたを通るようになったのはいつかという問題が残る。『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』では、大永四年(一五二四)に北条氏綱が妙国寺に制札を建てた(資八六号)ことを以て、大永以前から近世の街道を通行していた、としているが、妙国寺の制札だけで、道筋を判定することはできないであろう。
天正一八年(一五九〇)八月に徳川家康が江戸に入ったときには、武蔵国橘樹(たちばな)郡の市場(いちば)・小向(こむかい)から江戸城に向かったという(『天正日記』)。市場・小向は今の川崎市内で、国道一号線に沿っているが、そこから江戸までの通過地点が不明であるから、品川のどの辺を通ったかはわからない。おそらく、小向から六郷川(多摩川)を渡り、池上(いけがみ)・新井宿(あらいじゅく)を経て大井村に入り、それから品川を通ったと推測できる。そうすれば、海岸沿いを通るようになったのは、その後のことになる。
徳川氏が全国的な交通施設に着手したのは、関ケ原の合戦が終わって、実質的に全国の統一者となった慶長五年(一六〇〇)の翌六年正月のことであった。すなわち東海道の各宿に対して、家康の伝馬の朱印状を与え、奉行の伊奈備前(忠次)・彦坂小刑部(元成)・大久保十兵衛(長安)の伝馬定書を下付している。このときの朱印状または伝馬定書の実物または写しの残っている宿は神奈川・保土ケ谷・藤沢・三嶋・沼津・吉原・蒲原(かんばら)・由比・江尻・府中・藤枝・嶋田・金谷(かなや)・日坂・懸川(かけかわ)・見付・浜松・前坂(舞阪)・赤坂五位(御油)・藤川・岡崎・鳴海(なるみ)・熱田(あつた)(宮)・桑名・四日市・土山であるが(『徳川家康文書の研究』)、それらの文書から、原・興津丸子・新居・池鯉鮒(ちりゅう)・亀山・坂下・水口などの諸宿も、同時に伝馬の朱印状を与えられていたことは明瞭であり、白須賀・二川両宿は、同年に地子(ちし)免許があったというから、これも同時に設置されたことは明らかである(「東海道宿村大概帳」)。なお、赤坂五位は併記した朱印状であったから、後になって分かれたことがわかる。両宿の間は一六町で、東海道の宿駅間で最短距離であったのも、こうして初めは一宿であったことにもとづくのである。その他の川崎・戸塚・箱根・岡部・袋井・石薬師・庄野などは、後年に設けられたものであるが、品川宿はどうであったか。
品川には同年の伝馬朱印状は残っていないが、『新編武蔵風土記稿』には、慶長六年に品川郷を宿駅に指定して、駅馬三六匹を置かせて、代償として五、〇〇〇坪の地子を免除したと記している。これはおそらく誤りのないことであろう。
なお中山道(なかせんどう)の多くの宿は、翌七年に伝馬の朱印状を与えられているが、幕府は初めから、後の五街道のごとく整備したものを計画したのではなく、必要に応じて宿駅を定めたものであろう。北国街道の信濃埴科(はにしな)郡坂木村には、慶長八年に同じような伝馬朱印状が渡されたが、ここは後年には道中奉行の直轄した宿ではなくなっているから、五街道が主要街道として限定されたのは後のことと考えてよいであろう。