江戸幕府が定めた伝馬(てんま)の制度は、幕府が創始したものではなく、戦国大名がすでに実施していたものであって、公用の旅行者や物資の運搬のために、所在の人馬を無賃または有賃で徴用する制度である。その渕源に遡れば、律令制の駅馬や伝馬の制度に始まるものであって、伝馬の名称もそれに由来している。戦国大名のうちでは、小田原の北条氏の制度がもっとも整っていたが、駿河の今川、三河の徳川、甲斐の武田、越後の上杉氏などにも採用されていた。豊臣秀吉も全国統一の後には広範囲に利用していた。この制度の特徴は、リレーして人や荷物を運ぶことである。宿駅が設けられないとすれば、村や町に対してその義務を負わせて、次の村や町まで運ばせるが、交通が頻繁になれば、人馬を提供することを義務づけられた宿を設けなければならない。
慶長六年正月の伝馬朱印状は、まず冒頭に朱印が押してあり、この朱印がないものには伝馬を出してはならない、と記してある。この朱印は、印文に「伝馬朱印」と記してあり、その下に馬士が馬を牽いている絵があるもので、駒牽(こまひ)きの朱印ともいわれる。この朱印は、家康が伝馬の使用を認めた伝馬手形に押すもので、宿では、この伝馬朱印状に押してある印に照合して、誤りがなければ、その手形に書いてある数の馬を提供するのである。この方法は、すでに戦国大名が実施していたもので、形式的には新しいものではない。駒牽きの朱印はこの時に定めたものであるが、家康はこのとき大坂にいたので、朱印は大坂か京都で作って江戸へ届けた。多分二つ作って、江戸と大坂とで使ったものであろう。後に秀忠が将軍になって江戸城におり、家康が駿府城にいるようになると、この印を改めて、「伝馬無二相違一可レ出者也」の九字の印文を、三字ずつ三行に書き、それを縦に二つ割りにした形の印を、右半分を家康が用い、左半分を秀忠が用いた。のちには、三代将軍が右半分、四代将軍が左半分を用いて、将軍ごとに交互に使用するようになった。
伝馬朱印状と同時に、奉行衆の連署の伝馬定書が宿々に渡された。それには、第一条に伝馬は三六疋にすること、第二条に上り方と下り方の次の宿の名を記し、第三条に馬一疋について与える居屋敷の坪数、第四条にその総坪数を記し、第五条には一駄の荷は三〇貫目に限ることを述べている。一疋あたりの居屋敷の坪数は宿ごとに異なり、三〇坪(三嶋・由比・金谷)・四〇坪(日坂)・五〇坪(保土ケ谷)・六〇坪(懸川・浜松)・七〇坪(藤枝)八〇坪(四日市)等まちまちである。総坪数はこれを三六倍したものになるから、一疋あたり八〇坪の場合で二、八八〇坪になる。この坪数が与えられたということは、そこが無年貢地になったということで、これを地子免許という。
品川には、このときの朱印状や定書は残っていないが、『新編武蔵風土記稿』には、前述のように、慶長六年正月に、彦坂小刑部元成・大久保十兵衛長安・伊奈備前守忠次らが、東海道巡見のときに品川を駅場に定め、駅馬三六疋を定額とし、五、〇〇〇坪の地子が免許された、と記している。伝馬数は宿間を継送する伝馬制度の成立前から、他宿と同じ疋数であることが理に合っている。しかし、地子免許の坪数が、品川だけ特別に広いことや、また三六疋に対して不整数であることなど疑問も残るが、それを明らかにすることができないので、一応その説を挙げておく。