宿場の設定

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このときに宿(しゅく)と定められた所は、前から集落をなしていた所もあり、新しく人家を集めて宿場を作った所もあった。東海道の多くの宿場は、すでに平安時代または鎌倉時代ごろより、街道の集落であった所が多く、品川も戦国時代から宿の形を持っていたのであるが、近世の宿場はいずれも、街道に面して直角に屋敷割をしており、人工的な区画をしたことが明瞭で、古くからの自然集落でないことは明らかである。いつその屋敷割が行なわれたかは不明であるが、慶長六年の宿設定のときの定書に、一疋あたりの居屋敷の坪数をきめて、その分の地子を免除していることからすれば、京都・江戸間に本格的な伝馬制を布くと同時に、宿も新しく取立てたと考えてもよいであろう。ただ、古くからの集落をどの程度に利用したかは、宿ごとの事情によって異なるであろう。

 品川宿は、すでに戦国時代から南品川と北品川の両宿に分かれていたが(資九一・九二・一〇二号)、近世の品川宿も、目黒川を境にして南品川と北品川の両宿から成り立っていた。それゆえ戦国期以来の宿が、そのまま近世の宿になったということもできるが、前述したように、屋敷割が整然とした宿が、前からあったのかどうかは疑問がある。また近世の品川宿は海に面した街道に沿っているが、この街道が本街道になった時期も明確ではない。もし、慶長六年に新しい宿を設定したときに、本街道を海辺に移し、南北の宿の住民を移して、前と同様に南品川と北品川に分けて住まわせたとすれば、最も解決しやすいが、明確な史料はない。いずれにしても、慶長六年には、東海道が海ばたを通り、品川宿もそれに沿って成立していたということはできよう。

 品川宿ができた当初には、まだ川崎宿はできていなかったから、品川宿は江戸日本橋の伝馬町と保土ヶ谷宿の中間にあって、荷物の運搬の義務を負ったのである。日本橋までは二里、保土ヶ谷までは五里の距離にあった。川崎宿は寛永四年(一六二七)に設けられたが(『新編武蔵風土記稿』)、そこまでは二里半であった。


第159図 往来手形 品川南馬場の家主から箱根の関所役人へあてたもの。

 宿の創置のときの任務は、前の伝馬定書にみられるように、一日に三六疋の馬を提供することであって、のちのように人足の負担はなかった。一疋が三〇貫ずつの荷物を運ぶとすれば、総計一、〇八〇貫で、これが一日分の最大の運搬量である。馬を提供する家には地子の免除がある。品川宿全体で五、〇〇〇坪の免除とすれば、一屋敷につき約一四〇坪である。一四〇坪の地子を免除される代わりに、一日に一疋の馬を提供しなければならないことは大きな負担であった。他の宿のように、三〇坪や四〇坪の免除の場合には、さらに重い負担であったことが知られる。

 品川宿が成立したときには、東海道の起点の江戸日本橋から来る道は、芝浜の海岸沿いに高輪を経て、八ツ山下の町境から北品川宿に入り、目黒川を渡って南品川宿となり、それを通り抜けて、大井村・不入斗(いりやまず)村・大森村・北蒲田村・蒲田新宿村・町屋村等を経て六郷川(多摩川)にかかり、そこから川崎を経て保土ケ谷宿に達していた。北品川宿と南品川宿とは、戦国時代から分かれていたが、近世においてもそのままの形態を残し、両宿が合して一つの宿の機能を果たしていたのである。後年に歩行新宿ができるが、それはあらためて記述する。

 こうして、江戸から京都に向かう東海道に宿場が設けられ、一定の伝馬を用意しておくことが義務づけられたのであるが、江戸から小田原の間でも、まだ川崎や戸塚は、このときには設けられていなかったので、品川と保土ケ谷の間は五里もあり、旅行者にも不便であり、品川・保土ケ谷両宿の継立てにも重い負担がかかったので、前述のごとく寛永四年(一六二七)に幕府の命で、川崎宿が設置されることになったまた。保土ケ谷と藤沢の間は四里九町あったが、ここにも初めは宿が設けられなかった。しかし戸塚町の者たちは、旅行者のために休泊の施設をしたり、旅行者が望めば、保土ケ谷や藤沢へ馬を用立てて、相応の駄賃を取っていた。ところが、慶長八年に、藤沢宿の者が、公用の伝馬を勤めないで駄賃かせぎをするのは不当であると、代官の彦坂小刑部(元成)に訴え出た。そこで小刑部は同年十一月に、戸塚町の駄賃馬を禁じた。戸塚の町人は、さらに伝馬を勤めることを条件に、駄賃かせぎをしたいと小刑部に申し出たが、藤沢の町人は伝馬を勤めることにも反対をした。伝馬を勤めることは負担であるが、それにともなう駄賃かせぎの利益があるために、近くに宿ができることを望まなかったのである。このときに保土ケ谷宿では、藤沢との距離が遠くて迷惑をしているという理由で、戸塚が伝馬宿になることに賛成をした。戸塚から慶長九年二月に出した訴状には、戸塚のように伝馬を勤めないで、相応の駄賃かせぎをしている町は、江戸と小田原の間に大小二十余ヵ所あるのに、戸塚一ヵ所にかぎって駄賃も取らせない、さらに伝馬もさせないと藤沢町人衆がいうのは、非分ではありますまいか、と述べている。この訴状が効を奏したのであろう、戸塚が伝馬宿になることが決定した(『相州古文書』)。

 これによってみると、宿駅を設定した当初には、まだその中間の町で、駄賃を取って荷物の運送をしていた所が何ヵ所もあったが、伝馬という義務を課せられた宿がそれらを排除して、街道における荷物の輸送や旅人の宿泊は、宿の特権とするようになったことがわかる。

 宿を設定するには、家康の朱印状を用いていたが、伝馬などのことを定めたのは、大久保十兵衛(長安)・彦坂小刑部・伊奈備前守・加藤喜左衛門(正次)・板倉四郎右衛門(勝重)・青山常陸介(忠成)・内藤修理亮(すりのすけ)(清成)などで、いずれも初期幕政の民政・経済等に重要な地位を占めた人たちであり、かれらの後にも本多上野介(正純)・酒井備後守(忠利)・土井大炊頭(おおいのかみ)(利勝)・安藤対馬(つしま)守(重信)などの年寄衆(のちの老中)が事にあたっている。これによって、宿駅制度はきわめて重要なものとされていたことが明らかである。戦国時代につづく時代では、兵員や軍需物資の輸送、あるいは通信等のことを考えれば、一日もゆるがせにできないことであった。

 慶長六年には、家康はまだ将軍にはなっていなかったが、宿駅制度を定め、宿ごとに伝馬を徴発することにしたときに、すでに全国の支配者であることを示していた。なぜならば、街道は家康の領土を通るだけではない。豊臣氏に対しては同じように家臣であった諸大名の領分をも通るのであるが、そこからも家康の朱印状を持った者は伝馬を徴発することができた。また馬の駄賃なども、家康の家臣が定めたもので、それぞれの領主は、それに異議をとなえることはできなかった。すなわち、その領主権の一部を奪われたわけである。これは江戸時代を通じて行なわれたことであるが、この時点で、すでに家康が天下の統一者であることを明確にしたものとして、宿駅制度の意義は大きいのである。