道中奉行

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徳川家康が伝馬制を全国的に採用したのは慶長六年(一六〇一)であるが、同八年に家康が将軍になり、江戸に幕府が開かれ、徳川氏が全国の統治者であることが、名実ともにそなわるようになると、この制度はさらに整備されたものになった。まだ一部分ではあったが、大名が江戸に屋敷を与えられ、あるいは家康の嫌疑をさけるために、その家族を住まわせるようになると、江戸と全国との交通が盛んになり、道路や宿駅の施設の充実が要求されてきた。

 さらに慶長十九年(一六一四)から翌年にかけての、大坂の役による軍兵の大移動、寛永十二年(一六三五)の武家諸法度で参勤交代を制度化したこと、同十四年から十五年にかけての島原の乱による出兵、また都市としての江戸の膨張につれて、経済上からも街道・宿駅の施設がいちじるしく整ったのである。

 幕府でこれを管理したのは、前記のように初めは代官・関東総奉行あるいは年寄(老中)の職にあるものであったが、万治二年(一六五九)に道中奉行を置き、大目付高木伊勢守(守久)に兼任させ、道中に関することを管轄させ、さらに元禄十一年(一六九八)に勘定奉行松平美濃守(重良)に道中奉行を兼ねさせ、これより大目付と勘定奉行より一名ずつが道中奉行を兼帯して、道中のことを管轄した。大目付から一名兼任させたのは、参勤交代などによる大名の通行が多く、宿場において紛争が生ずることがしばしばあったためであろう。大目付は老中に属して、大名を監察する任務を有し、幕府より諸大名への通達類も、大目付を通して行なわれていたから、そういう関係であろう。勘定奉行は幕府の財政や、幕領の民政を掌握しているもので、早くから道中方に関係を持っていたので、実務上ではもっとも密接であった。

 このように幕府では道中奉行を設けて宿駅・道路のことを管掌させたが、当時の事務機構では、五街道全宿の細部にわたり監理することは不可能であって、事件が生ずれば、宿側から訴えるか、人馬の使用者である大名・旗本側から通報するかして、その時々に判断を下した。そして一般的なことについては、布達・御触(おふれ)をもって宿側に通達し、あるいは使用者に通知をした。

 宿側は道中奉行の管掌下にあるから、その通達に対しては比較的従順であったが、大名・旗本は身分上では道中奉行が命令を下すことができない。大名が交通上のことで疑問があれば月番老中に書面を出し、老中が道中奉行の意見を聴いて返答をする。また大名へ通報するときには、老中の命を受けた大目付が、各藩の留守居を呼んで知らせるのが例である。各藩から道中奉行に直接にたずねてくるのは事務的なことが大部分である。

 公家に問合わせるときには、道中奉行から老中に上申し、老中から京都所司代に達し、所司代が禁裡御付武家を通じ、武家伝奏を通して、その本人に伝える。その返事は逆の道筋で道中奉行のもとへ戻ってくる。したがって、公家が宿々で賃銭を払わなかったときなどには、宿側の訴えが出てから、解決までに数年を要したこともある。

 このように、道中奉行は使用者側に対しては直接の命令権がないから、宿駅制度の改革、ことに使用者側の不法を抑え、宿・助郷を保護するには、老中など、いわゆる幕閣が強力に支持するのでなければ実行できなかった。宿駅制度の上で大きな改革が行なわれたのは正徳年間と寛政年間および文政四、五年ごろの三度である。正徳度には新井白石が改革に熱意を持ち、それが幕政に反映した。寛政度は松平定信の寛政の改革に関連している。文政度の改革の中心人物は判らないが、道中奉行の岩瀬伊予守(氏記)と石川主水正(忠房)のほかに、老中の水野忠成が強力に推進したようである。『五街道取締書物類寄』(『近世交通史料集』一・二)という、きわめて大部の編纂物は、この文政度の改革事項を分類編修したものである。この改革が、使用者側の人馬の不法使役に対して、極力制限を加えていることは、この書物に明白にされている。

 幕府または道中奉行は、法令による指示のほかに、直接に宿・街道をどのようにして監理をしたのか。万治元年(一六五八)の達(資一五三号)によれば、参勤交代または大坂城・二条城・駿府城など警備の番士が交代するとき、そのほか人通りが多く、人馬が遅滞するときには、代官が折々町へ見廻りをすること。ただし年貢納入の時期や公儀御用のときは、手代(てだい)をつけておいて、町人・百姓がわがままをしないように、また往還の者に不法があれば、法度をよく申し渡すように、といっているので、代官または手代が、繁忙時には出役して監督したことがわかる。

 しかし、宿場の数は多く、地方の代官陣屋には数名の手代が駐在しているに過ぎないから、到底すべての宿に派遣することはできない。おそらく江戸周辺の宿に限られたであろう。また貞享三年(一六八六)の東海道宿々廻状(資一五五号)によれば、江戸より折々目明(めあかし)をやって、くもすけなどを捕える、といっている。

 こうして、道中奉行が置かれてからも支配の代官から宿へ手代をつけておいたが、宿場の専任というわけにはいかず、納税や行政の用務が多忙のときには、宿場の用務を欠くこともあって、諸事不吟味となり、問屋の心次第に助郷へ人馬を割りかけ、また往来の者にも不法のことがあって、人馬が多く必要となり、宿も助郷も困窮したので、宝永四年(一七〇七)に、宿手代と称して、幕領の宿には二人ずつつけておき、その地の代官が支配して、往来御用や宿・助郷人馬の取りさばきをし、軽い事は、幕領は代官、私領は領主方で申しつけ、道中奉行へは、出水・出火、または旅人の病気・行倒れなどを注進するだけであった。

 宿々の注進や軽事は、道中奉行が一手一手に申付け、公事(くじ)訴訟などの入組みのあるときには、勘定奉行の内寄合(うちよりあい)へ道中奉行が出向いて吟味をした。そのほか宿々の助郷が最寄(もより)違いで割替を願い出ても、それにかかる役人が少ないので、吟味もできかね、不急のことは延期をし、宿々の拝借金の返納の吟味も、代官または領主役人の申し越すとおりで、吟味も行きとどかなかった。品川宿では、北品川宿陣屋横町に宿手代の詰所があった。

 ところが、宿々に置かれた宿手代の勤務ぶりがよくないというので、正徳二年(一七一二)に廃止された。これは当時幕政に参与していた新井白石の意見によるもので、宿手代は宿場の者と結託して、公役の人馬は助郷に触れあて、宿人馬は一般旅行者を運んで相対賃銭をとったので、助郷の村々は疲弊して、年々租税も減ずるにいたったので、この宿手代を廃止したという(『折たく柴の記』)。

 そのかわり、道中奉行へ与力二騎と同心一〇人ずつを付属させ、道中筋のことは何事によらず道中奉行が聞き届け、両人で月番をきめ、毎月十九日を寄合日と定めて、公事訴訟あるいは拝借返納のことを明細に吟味をしたので、拝借金の返納もはかどり、長年延滞していたものも始末がついた。

 道中奉行の宅には役所が建ててあり、与力・同心はそこへ昼夜詰めて用務を果たした。公事(くじ)訴訟の者が出頭したときには、双方の申し分を書留め、宿々の拝借金の上納・不納を吟味し、伝馬宿入用米や道中筋入用等は一年ごとに清算するなど、かなり繁忙であった。この与力・同心は享保九年(一七二四)に廃止された。

 元禄十一年(一六九八)に勘定奉行が道中奉行加役となるまでは、道中方御用を達するために勘定(勘定所の職名)三人が付けられていたが、勘定奉行の松平美濃守(重良)が道中奉行になってから、勘定御殿詰組頭の竹村弥兵衛と細田三右衛門が道中方御用を勤め、その後杉岡弥太郎・萩原源左衛門が引きつづいて勤め、正徳二年に両人が勘定吟味役になった後も、道中方のことにも加わるようにということで、その後の例となった。享保九年に与力・同心が廃止されてからは勘定六人が付属した。寛保二年(一七四二)には、道中方御用で骨を折るというので、道中御用掛りの勘定六人に、一年に一〇両ずつを下付することになった(『駅肝録』)。

 先に幕領の宿々に宿手代が置かれたときには幕府から扶持を給与したのであるが、東海道・中山道・日光道中で、合わせて七六宿あり、一宿に上役一人・下役一人を置き、上役には米五〇俵ずつ、下役には米二五俵ずつ(三斗五升入り)を与えたので、合わせて五、七〇〇俵になった。この扶持米にあてるために、宝永四年から幕領の村々に御伝馬宿入用米として、高一〇〇石について米六升を徴することにし、一年に米六、〇〇〇俵ずつを納めさせてきたが、宿手代の廃止後もそのまま徴収して、道中入用にあてた。後述する貫目改所の費用もこれから支出された。

 道中奉行関係の出納には、御伝馬宿入用米のほかに、道中の並木の立枯・風折などの払代金・闕所(刑罰による没収)の金銀・宿拝借米金の返納分・宿助成金の取立等があり、初めは年貢米金と打込みで混雑していたが、与力・同心が付けられてからは、項目ごとに清算をするようになった。

 なお文政五年(一八二二)からは、五街道宿々見廻りのために、御普請役・評定所書役のうちから、一年に二人ずつ、一年のうち半年ほどは出張して、宿駅の状況を監理することになったので(『道中方秘書』)、これ以後は宿の戸口その他の調査も行なわれるようになった。

 道中奉行の管轄する街道は、俗に五街道と呼ばれる東海道(江戸より京都までと、大津宿より分かれて大阪に行く道)・中山道(江戸より木曽路を経て、東海道の草津宿に行く道)甲州道中(江戸より中山道の下諏訪宿にいたる道)・日光道中(江戸より日光にいたる道)・奥州道中(日光道中と宇都宮宿で分かれて白河に行く道)のほか、山崎道(東海道伏見宿より分かれて、山崎・昆陽を経て西宮に行く道)・美濃路(東海道熱田宿より分かれて名古屋・大垣を経て中山道の垂井宿にいたる道)・佐屋路(伊勢湾北岸をまわるもの)・本坂(ほんさか)道(浜名湖北岸を通るもの)・日光例幣使(れいへいし)街道(中山道倉賀野宿より日光道中金崎宿にいたるもの)・壬生(みぶ)道(日光道中小山宿より壬生・鹿沼(かぬま)を経て、日光道中今市宿にいたる道)・日光御成(おなり)道(江戸より王子・川口・岩渕を経て、日光道中幸手(さって)宿にいたる道)・水戸佐倉道(水戸街道・佐倉街道の一部で、江戸より千住(せんじゅ)を経て松戸に行く間と、千住から八幡に行く間)があった。もっとも、道中奉行の支配下になった年代は街道によって異なり、本坂道や日光例幣使街道は明和元年(一七六四)であった。

 道中奉行は、宿駅・助郷の助成、助郷の割替、道路・橋梁の監理ならびに普請のこと、並木のことなどを扱い、大名領内でも路線の変更・道路の拡幅など、すべて道中奉行の許可を得なければならなかった。品川宿のように、江戸時代を通じて幕領であったところは、比較的に問題が少なかったといえる。