問屋

607 ~ 608

それぞれの宿場には、その住民の中から選ばれた宿役人と呼ばれる役人がいた。これは村における村役人と同じように、宿場の仕事の大部分はかれらによって担当されていた。道中奉行は、その下役の者に宿々を巡廻させて、直接に注意や指示を与えるほか、大名・旗本などの旅行者の報告や、助郷の訴願などによって、宿駅に対して警告を発し、取締り規則を制定し、また宿役人に対する処罰権なども持っていたが、通常の場合には、宿駅の業務はすべて宿役人によって運営され、その財政についても、特に干渉を加えることはなかった。

 宿役人の長を近世では問屋といった。律令制でいえば駅長にあたり、中世には「宿の長者」などと称せられたものにあたる。問屋という言葉は、中世に運送業や倉庫業に従事したものを問(とい)・問丸(といまる)などと呼んだことに起原をもっている。そして、小田原の北条氏の治下では、問屋というものが、すでに運輸につき特権を持ち、あるいは宿泊の業を営んでおり、その権利は北条氏によって認められたもので、公的な性格を有していた(『相州古文書』)。それに従事する者も武士またはそれに近い性格をもっていた。他の領主のところも似たもので、戦国大名はこれらの問屋を通して物資の入手をはかり、あるいは旅人の動静を知ることにも利用していた。徳川氏が慶長六年東海道をはじめ、主要街道に伝馬制を設けたときには、伝馬朱印状ではその宛名を単に前坂(舞坂)・熱田宮のごとく、宿名のみとしているが、奉行の連署の定書では、舞坂年寄中・岡崎年寄中などと、年寄宛てにするか、土山伝馬役中のごとき書きかたをしている。ここに年寄中とされているのが、宿役人か宿中で力を持った者をさしており、後の問屋と称すべきものも、このうちに含まれていたと考えるべきであろう。

 翌七年六月には、宿々の伝馬駄賃を定めた奉行の連署状が各宿に交付されたが、それには藤枝宿中・金屋(谷)宿中のように、宿役人名を出してはいない(『徳川家康文書の研究』)。また慶長八年に関東惣奉行の青山忠成らが、伝馬のことについて藤沢宿に出した文書では、宛名を藤沢名主中としている(『相州古文書』)。したがって、江戸幕府の初めから、問屋という名が一般的であったのではなく、幕府としては伝馬の責任を宿全体に負わせ、直接には年寄または名主などと呼ばれるものを、宿の代表者としていたのであろう。しかし、宿にはそれ以前から問屋がいて、運送業や倉庫業を行ない、領主もそれを利用して、物資を集めることなどをさせていたので、そういう問屋が伝馬の責任者になるようになっていった。ことに寛永十二年(一六三五)に参勤交代制が実施されて、一大名について何百人、何千人という従者や、多量の荷物の運搬や宿泊・休息を、各宿で設営しなければならないようになると、運輸に関する専門的な知識をもち、業務実績のある問屋が宿駅の中心となった。

 問屋の多くは戦国時代の武士またはそれに近い階層から出て、宿内でも権力を有していたものが多く、伝馬役をつとめる上で重要な働きをしていた。それは、家康の朱印状を所有していたのが、問屋や本陣であったことからも推察できる。しかし、品川宿では、南北ともに問屋は江戸時代を通じて同一の家ではなく、しばしば交代している。