問屋の助役に年寄がある。それは数名いるのが普通で、日々交代で問屋に出勤して宿駅の業務に携わっていた。村でいえば、名主の助役の組頭にあたるものであった。問屋と年寄は宿役人であるが、その下にいて書記の仕事をするものを帳付(ちょうづけ)という。また馬指(うまさし)・人足指というものがあって、人馬につける荷物を宰配した。両者を合わせて仕事をするところでは人馬指といったが、品川宿では馬指と人足指とが別々にいた。前の宿から人馬で付け送ってきた荷物を問屋場の前で、宿場や助郷から出てきた馬や人足に割りふりをして継ぎ立てさせるもので、帳付はそれを一々記帳しておき、日々に集計をし、それが賃銭の支払いなどの原簿になった。帳付や馬指・人足指は問屋から給金で雇われているのが普通であったが、荒くれ男の馬士や人足の指図をし、また大名・旗本の家臣などの横暴ないい合いにも適当な応待をして、日々何百人という人々の往来に支障のないように取りしきらなければならない役で、気転もきき、度胸もある人でなければ勤まらなかった。
東海道川崎宿の問屋を勤め、のちに幕府の代官に取り立てられた田中丘隅は、その著の『民間省要』のなかで「問屋は宿々の人馬のことをつかさどる役で、往来の人々のためにつくしているが、かえって往来公用の者たちに悪口打擲され、しかも問屋には何の所得もなく、往来人の不法にあき果てて、問屋をやめたいと思っても、代わってくれる人がなく、やむを得ず自分の家の田地や屋敷を添えてやって、ようやく問屋役をのがれる者もある。街道を通じて問屋を競望するものは十人に一人もない。残りの者はみないやがるばかりである。これは恩恵がうすく、公用の人の不法狼藉が多いためである」といっている。これは東海道の宿々のように、公用の旅行者、すなわち幕命を帯びた武家の往来の多いところでは、とくにはなはだしい現象であったのであろう。中山道その他では、問屋をずっと世襲していた家が多いようである。