問屋場

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問屋・年寄らの勤める場所を問屋場という。多くは問屋の家の一部をあてたもので、そこに宿役人が交代で勤務し、帳付たちが日々詰めて、人馬供給の事務をとりはからった。一宿に問屋が一名のところでは、問屋場も一ヵ所であったが、二名いれば問屋場も二ヵ所あって、交代で事務をとるのが例であった。

 品川宿は南と北に分かれていたから、初めは南品川宿三丁目東側北角と、北品川宿一丁目西側と二ヵ所あった。南品川宿の問屋場は慶長六年の宿起立のときに、名主で本陣であった吉十郎が、百姓たちと相談して定めたもので、町抱地であったが、元禄八年(一六九五)に織田越前守の検地のときに縄入れが行なわれ、間口一四間半・奥行二二間、ほかに田畑が一町一反六畝二二歩を問屋役屋敷と定め、検地帳は問屋市郎左衛門の名儀とした。ところが二十数年を経て、市郎左衛門もようやく困窮したので、享保十二年(一七二七)二月に惣百姓が相談して、その土地を半分に割り、間口六間半・奥行二二間を同人がもらいうけて、同十四年に百姓庄兵衛に譲り渡し、残地の間口八間・奥行二二間を問屋場と定めたという(『品川町史』上巻四五〇ページ)。北品川宿の問屋場も慶長六年の宿設立のときに作られたものであろうが、正徳二年(一七一二)に焼失してから再建されず、南品川宿の問屋場一ヵ所で業務を扱ってきたが、北品川宿の人馬は南品川宿へ通わなければならず、問屋場がないために近隣の繁栄もなくなり、明き店が多くなって、北品川宿の者の負担が増すようになった。そこで二一年後の享保十七年(一七三二)になって、北品川宿から問屋再建のことを代官所に願い出し(資一六二号)、翌年に許可された。

 その後、文政六年(一八二三)正月十二日の品川宿の大火で南北の両問屋場は類焼した。そのため、また問屋場を一ヵ所にして、南品川宿の問屋場跡に一時仮普請をしたあと、翌七年に二六坪余の本建築の問屋場を建てた。この問屋場も嘉永五年(一八五二)七月二十八日の大火に焼けて、一時歩行新宿に仮建築をし、翌六年に本建築をしたが、これも慶応二年(一八六六)二月二十七日の火災で焼失し、翌三年にまた建て直した。品川宿の問屋場は問屋の家の一部を充当していたものではなく、独立した建物であったが、いつからそうなったか判明しない。また品川宿には後に述べるように貫目改所が置かれたが、それ以来は問屋場と貫目改所とが同一建築物となっていた(『品川町史』上巻四五〇ページ)。

 品川宿の問屋・年寄は、特別な事情がなければ世襲をしていたが、問屋・年寄および名主になる家はほぼ一定していた。ただ享保十二年に、品川宿の問屋場での助郷人馬の遣い方が不埓であるということで、問屋両人が役儀取上げで戸〆(とじめ)、帳付たちは役儀召放しになった事件がある(『三觜家文書』)。そこで、ここで問屋がかわったとみることができる。天保十三年(一八四二)の書上によると、北品川宿の問屋源左衛門は、宝暦三年(一七五三)より五代引きつづいて問屋をしている家であった。南品川宿の全平は、天保八年より問屋をしていたが、同宿の年寄伊左衛門は、数代引きつづいて問屋・年寄を勤めていた家であり、歩行新宿の年寄八郎左衛門は、数代引きつづいて名主役を勤めた家で、同人も文化七年(一八一〇)から文政七年(一八二四)まで名主を勤めていたが、同年に名主を退役して年寄になったものである。また北品川宿の年寄庄九郎も三代引きつづいて年寄役を勤めている。

 問屋や年寄を勤める者は、それを専務としていて、商業その他の余業を営んでいない。これに対して帳付などは一代限りであって、帳付のなかには紅・升酒・荒物・貸本などを営んでいる者もあり、馬指になると馬を一疋から六疋まで所持していて、生計のたしにしていたし、人足指には水茶屋渡世をしている者もあり、迎番には手遊び商いをする者もいた。また帳付以下には、家主役すなわち貸屋の差配をしているものもあった(資一七〇号)。かれらはいつその役を離れるかわからないから、別の収入源を持っている必要があったのである。

 問屋は、初めは旧家の者が世襲をしていたが、南品川宿では途中から一代かぎりで交代するようになり、そのため宿内の取締りに権威を欠くようになった。たまたま安政五年(一八五八)に南品川宿の問屋全平が病死をすると、宿役人らは跡役に名主安之助を兼帯問屋とするように、十月二十二日にまず支配代官に願い出た。そしてその許可を得てから道中奉行に届けて、その承認を求めている。兼帯問屋となった安之助は苗字を利田(かがた)といい、品川宿の旧家であったが、このとき問屋役は一代かぎりでは宿内がよく治まらないとして、南品川宿の年寄で、組合宿取締役を勤めていた山本忠次郎と連名で、十月二日に問屋役を世襲制にすることにして、適当な人物を推薦するように惣百姓に申し出た。その文中でつぎのように述べている。

 「問屋をその身一代かぎりとしておいては、宿のためによくない。前には旧家の者が勤めていたので、下役も高持の百姓のなかから勤めていたが、上役の家がたびたび代わって、旧来の家筋ではない者が上に立つようになると、下役の者も相応の人が出なくなり、倹約のことも行きとどかず、伝馬の保持にも不都合のことばかり生じて、近ごろはすっかり行きづまってしまった。そこで、今般相談をして問屋役をきめたならば、後年になって相続人が幼年で、勤務にさしつかえが生じたときには、後見人を置き、一代かぎりにならず、役々の者が数代相続するように議定しておきたい。そうすれば、勤務ぶりも当座のがれの不誠実の取計らいをすることもなく、宿のためを第一に考え、旧記・書物等も長くその家に伝わり、権威も立ち、下役の者も上役を主家と心得て、実意をつくして勤務するようになるであろう。よく相談をして問屋役を見立てて、当月十日までに申出るように。」

 これは安之助が問屋を引きうけるにあたって、惣百姓から一札を取っておこうとしたもので、安之助は年寄以下宿内の馬役・歩行(かち)役らの負担者すべてから、推薦依頼された形で問屋になったのである(『品川町史』上巻四七四ページ)。さらに十一月には、小前一同が問屋選定に関する議定書を作り、また問屋の役料も制定している。議定の内容は次ぎのようなことである。

 「宿方にとっては、名主と問屋の両役は格別に重い役であるが、中古以来、問屋役にはその家筋でない者が出て、数年を経ないで度々入り代わりに勤めている間に、惣体の取締りがくずれてしまった。地方(じかた)住民としての支配は、安之助殿が数代の旧家で名主役を勤められ、宿内の浮沈はその一身にかかっているので、諸事倹約に心づかれ、下役も小前のなかから人撰をして採用されてきたが、問屋役は平常の勤め向が往還のことだけで、宿の住民の生活等のことは、自然におろそかになり、小前百姓と親しみがうすいので、往還役の基本を忘れ、伝馬の負担についても、小前の失費も考えず、その日の用務さえすればよいとしているので、つねに地方と往還との人気が裏表になり、地方で役立つ者も往還役へは出ず、そのうえ問屋も度々代わるので、下役の者も月雇い同様の者がなり、不取締りにもなったのである。今般小前一同が衆議の結果、問屋役は今後永久に名主の安之助殿が兼勤され、ほかに年寄が両人で地方・往還ともあわせて宿役を勤められたい。もし将来当主が幼年のときには宿方から役料を出して年寄を一人増して、合わせて三人の年寄で勤めるようにする。もっとも増員分の年寄は年季をかぎって、その期限になったら退役するとも、貫目改所の定詰(じょうづめ)にふりかえるなり、そのとき次第に取計らわれたい。」(資七一七号)。

 こうして南品川宿の問屋役は利田家で名主と兼帯することが決定されたのである。北品川宿の問屋は世襲制がつづいていたので、こうした問題は生じなかった。またこのときに南品川宿では、年寄・百姓代と、問屋になった安之助との間で、問屋の役料をきめている。それはつぎのごとくである。

一 米七斗         問屋給米(幕府より与えられたもの)

一 米三石一斗       役料地の田の小作米(このなかから年貢や高掛りの負担は出す)

一 銭五貫文        役料地の畑の小作年貢(前と同じ)

一 金五両         馬役一軒分を役引き

一 金三両         町入用を役引き

一 金二両         増役料

一 銭四一貫七四八文    五節の役銭

本(馬)役六三軒、半役七軒、歩行役八軒、四町目の小役五軒半、計八三軒半の家から、一軒につき一節に一〇〇文、五節で五〇〇文ずつを出す分

一 銭四〇貫文       五節の役銭

   旅籠屋四〇軒から、一軒が一節につき二〇〇文、五節で一貫文ずつ出す分

一 銭一貫文        五節の役銭

   三軒家の町役銭で、一節に二〇〇文ずつ、五節で一貫文ずつ三軒分

一 銭一貫五〇〇文     三節の役銭

   小役中の役銭で、一節に五〇〇文ずつ三度の分。

 合計して米三石八斗、金一〇両、銭八九貫二四八文となる(資一七七号)。このうち問屋給米七斗のほかは、すべて宿民の負担である。銭四貫文を金一両とすれば、金三二両余と米三石八斗であるが、このうちから役料地の年貢も払わなければならなかった。江戸の町名主の給料は、多いのは三〇〇両、少ないのは五、六両、平均して六、七〇両であったというから、品川宿のように繁忙な宿の問屋としては、十分な手当とはいえなかった。