宿役人の執務

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宿役人および下役の者は、毎日問屋場へ出勤するが、安永三年(一七七四)十二月に、宿役人と助郷惣代と合議して決めた「往還勤方議定箇条」によると、その勤務条件はつぎのごとくであった(『品川町史上巻五四一ページ』)。

 問屋たちは日々未明より問屋場に詰め、一人ずつは終日問屋場をあけないようにして、帳付・馬指・人足指に立ちあい、助郷人馬に不足があれば助郷惣代へ掛けあい、代わりの人馬を出させるようにし、また宿の出すべき人馬も改めて、定数に不足がないようにしなければならない。年寄も同様に毎日問屋場へ詰めて、問屋たちにさし添って勤めること。帳付・馬指・人足指の者たちは同役の者が申し合わせて、平日問屋場を寸時もあけないようにする。帳付は、先触やその他の往来の多少を考慮して、問屋たちに相談のうえ、余分の人馬を触れあてないように心がけ、日々の日〆(ひじめ)帳(出勤した人馬数などの帳簿)を怠りなくつけなければならない。

 馬指と人足指たちは、助郷惣代に立ちあわせて、人馬が到着したか否かを厳密に改め、すべて問屋や年寄の差図を受けるようにする。泊り番は帳付二人・馬指二人・人足指一人、計五人が毎夜問屋場に詰めていて、夜中の継立を遅滞なく取計らうようにする。幕府の御用物の場合はもとよりであるが、そのほかの往来でも混雑したときには、夜中でも問屋や年寄どもを呼び出さなければならない。

 迎番は、旅客を旅籠屋へ案内をするものであるが、南品川宿・北品川宿・歩行新宿の宿ごとに、旅籠屋たちから給金を出し、一人ずつ計三人を抱えおき、毎日問屋場へさし出して問屋の指図をうけて働かせる。もっとも、大通行で手がまわりかねるときには、宿(やど)を引きうけている旅籠屋たちが、自身で出て案内をする。


第160図 問屋場(駅遞志稿)

 右は問屋場が南品川宿の一ヵ所になっていたときの規定であるが、問屋場が南北の二ヵ所あった文化元年(一八〇四)正月の「宿方明細書上帳」によれば、両宿で問屋二人・年寄四人・帳付六人・馬差(指)六人・人足差二人・迎番二人がいて、南北の問屋が三日ずつ代わりあいで当番となり、日々問屋一人・年寄一人・帳付三人・馬差二人・人足差一人・迎番一人が詰めるほか、下働きの者四人が詰めていた。これは南北の問屋場が三日交代で開かれていたということになる。文政六年に問屋場が一ヵ所となってからも、両宿が三日交代で勤める原則には変化がなかったが、享保七年(一七二二)に歩行新宿が加宿となっていたので、年寄以下のものは歩行新宿からも出務した。天保一四年(一八四三)十二月の「宿村明細書上」によると、三宿には第35表のとおりの宿役人と下役がいた。

第35表 宿役人と下役人数
問屋 年寄 帳付 馬指 人足指 迎番
南品川宿
北品川宿
歩行新宿

 

 問屋場へは南北両宿が三日交代で勤めるほかに歩行新宿からも出勤するので、平日の三日間の勤め方は第36表のごとくで、これを三日ずつくり返すことになる。

第36表 勤務日程表
問屋 年寄 帳付 馬指 人足指 迎番 人足請負人
当番の宿 一人 一人 二人 二人 一人
三日勤 二日勤 三日昼夜 三日昼夜 二日勤
歩行新宿 一人 一人 一人 一人 二人
一日勤 三日昼夜 三日昼夜 一日勤 三日宛詰切

 

 この結果、毎日問屋場へ出ている者は問屋一人・年寄一人・帳付三人・馬指二人・人足指一人・迎番一人、ほかに人足請負人二人となる。ただし、身分ある人の通行のときや、幕府の公用の通行がかさんだときには、宿役人や下役が全員出勤をする(『品川町史』上巻・『東海道宿村大概帳』)。

 御用通行の者に対しては宿役人は宿はずれまで出迎えや見送りをしなければならず、御用宿を命じられた旅籠屋の亭主は袴をつけて敬意を表さなければならなかった。なお問屋・年寄などの宿役人は享保九年(一七二四)に勘定奉行兼道中奉行の稲生下野守(正武)から継上下(つぎかみしも)の着用を許され、平日の勤務中はもとより、奉行所等へ出頭のときも着用していたのは品川宿が東海道の発端の宿で、とくに用務の多い宿として、別あつかいされたものであった(資一七五号)。