幕府が伝馬宿を定めた趣意は、公用の旅行者のために伝馬を提供させて、遅滞なく目的地に到着させることが主眼であるが、それに関連して、途中の宿泊や休憩のための施設が必要になる。そこで近世の宿駅が設けられた目的を大別すると、第一は運輸である。これは人馬で、旅行者や荷物を次の宿まで送るということである。このために、一定数の人馬を宿ごとに準備させたのであるが、最初は馬だけで、慶長六年(一六〇一)には東海道の諸宿は三六疋ずつと定められていたが、のちには馬一〇〇疋、人足も一〇〇人と定められた。これは宿場で一日に提供する限度数で、これを超えれば助郷の村に人馬を出させた。宿駅では、陸上の運輸機関として馬と人のほかは使用せず、車は許されなかった。江戸では牛車や大八車が用いられ、大坂ではべか車が利用されるなどのことがあったが、宿駅における人馬の存続を計るために、街道では車は使わせなかったのである。
宿駅の任務の第二は通信であった。幕府公用の書状を遞送するのが、宿駅の大きな仕事の一つで、昼夜を問わない急便もあるから、常にその用意が必要であった。そのために宿の人足があてられ、品川宿では、問屋が御状箱御継所という役を兼ねることにもなった。第三の任務は、休泊の施設をすることであった。公家・大名の旅行には、宿泊所と小休所とが必要であった。小休所は午後の小憩をする場所で、一般旅行者のためには茶店があり、大名等は本陣を用いるのを原則とした。また宿泊のためには旅籠屋・木賃宿などがあり、大名は本陣に泊まるのがきまりであり、また大通行のときには寺院を用いることもあった。
宿駅は以上のごとき公用の任務を果たすために設備されたものであるが、それとともに、一般の旅行者や荷物の輸送も引きうけるようになり、宿人馬のほかに、馬士や駕籠かきが集まり、あるいは多くの飲食店や雑貨店などができ、さらに近傍の村々の経済の中心ともなって、物資の集散地となった。また旅行者の遊興のために、旅籠屋が食売女(飯盛女)を置いたことから、公娼のごときものとなった。江戸では初め、日本橋の裏に吉原という遊郭があり、明暦三年(一六五七)に浅草の浅草寺(せんそうじ)裏に移されて新吉原といったが、ここだけが公認の場所で、ほかに娼婦のいる所は岡場所といわれ、しばしば禁止されていた。しかし、江戸の出口にある四宿には、食売女を置くことが許され、品川宿には四〇〇人、千住・板橋・内藤新宿では一五〇人ずつが公認されていた。食売女は、本来は旅行者のためのものであったが、四宿では、江戸に住む者の遊び場所となり、ほとんど遊郭に異ならない施設を有し、一種の歓楽境となったのである。
このようにして、宿駅は複雑な機能を持つ集落として発達した。しかも、行政上は幕領として代官の支配を受け、宿内の一部は町並地として、その住民だけは江戸の町奉行の管轄下にあった。宿場としても、五街道中もっとも往来のはげしい東海道の出口にあったから、他の宿とは違った継立方法が行なわれていた。以下それらについて、くわしく述べることにする。