御定賃銭

624 ~ 632

駄賃馬については、幕府では、のちに江戸町年寄役を世襲した奈良屋市右衛門と樽屋三四郎が、各宿間の駄賃を定め、慶長七年(一六〇二)六月十日付で「定路次中駄賃之覚」として宿ごとに通知をした。それには伊奈忠次・板倉勝重・加藤正次・大久保長安が裏書している。品川宿のものは残っていないが、東海道の藤川宿のものでは、藤川から岡崎宿まで荷物一駄四〇貫について鐚銭(びたせん)五五文、赤坂宿へは六五文とし、鐚銭六文を永楽銭一文として取引きすることを命じている(「古文書参州」)。永楽銭は明(みん)からの輸入銭で、鐚銭は国内で鋳造された悪質のものであるが、慶長十三年からは永楽銭の使用を禁じたので、しだいに鐚銭が一般の通貨となった。慶長七年では、まだ永楽銭の使用が広く行なわれていたので、同じ日に中山道の追分宿に出した駄賃定では、永楽銭で値をきめている。

 江戸・品川間の駄賃および人足賃が定められた最初は明確ではないが、家康は関東移封後、一里の駄賃を一六文に定めたといい(『東照宮御実記』)、また慶長十四年(一六〇九)二月に東海道各駅に命じて、人夫は一里に京銭八文、駄馬一六文としたという(『昆陽漫録』)。しかしはっきりした数で示されているのは慶長十六年七月に、江戸(日本橋)より品川まで上下の駄賃荷物は、一駄を四〇貫(四五貫ともいう)として、駄賃は鐚銭(京銭に同じく、国内の鋳造銭)二六文、板橋へ三〇文(三二文ともいう)、人足賃は馬の半分としたときである(『徳川禁令考』五九章)。元和二年には、一駄が品川まで三四文、板橋へ三九文となり、三割増となっている。そして、規定のほかに増銭を取る者があれば、その町じゅうの家一軒について過料銭一〇〇文ずつ、当人は五〇日の牢舎と定められている(同上)。元和八年の規定になると、罰則がさらに加わって、その町の年寄は過料五貫文を出すことになった。

 寛永二年(一六二五)にも同じ賃銭であったが、翌三年には駄賃は平地一里につき一〇文であるという原則を示しているが、江戸・品川間は二里であるから、三四文という賃銭はその原則に合わない(同上)。前には一里一六文と定めたといい、それも慶長十六年の江戸・品川間の二六文に合致していない。一里につき何文という規定はこの後もあらわれ、ことに賃銭を上げるときには、一里で何文という方法がとられていたので、原則として用いられたことは誤りがない。いま、享保十四年(一七二九)に江戸南伝馬町の名主高野新右衛門が書き上げたもの(『御伝馬方旧記』七)を参照して、慶長十六年から宝永四年(一七〇七)までの江戸・品川間の本馬駄賃の変動を示すと次のとおりである。宝永四年の規定は、享保十四年にも用いられていたものである。

第37表 慶長より正徳までの江戸・品川間、品川・川崎間の賃銭
年代 慶長16 元和2 明暦1 万治1 〃2 〃3 寛文1 〃2 〃3 延宝3 天和1 〃2 〃3 元禄3 宝永4 正徳1
荷種
江戸まで 一里五文増 一里五文増 〃十文増 復旧 一里五文増 二割増 三割増 二割増 二割減 三割減 一割半増 三割増 元賃銭
本馬 26 34 42 53? 42 53 64 42 53 64 83 104 83 64 72 94 94
軽尻馬 27 27 41 27 41 64 47 61 61
人足 13 17 21 21 31 21 31 48 36 47 47
川崎まで
本馬 50 70 85 114 114
軽尻馬 33 50 56 73 73
人足 24? 34? 43 56 56

 

 このうち元和二年のものは『徳川禁令考』所収の史料で、天和二年のものは『御当家令条』などの史料で補った。賃銭を上げたときには、米・大豆の値上がりや、銭相場の下落などが理由とされ、値上げはある期間に限り、その理由が消失すれば旧に復するという原則であった。

 この表によれば、元和二年には一里一六文、明暦元年には一里二〇文としていたのではないかと思われ、慶長十六年のものは一里一二文か一三文であったのであろうか。一里につき何文増というのは寛文年中で終わり、寛文二年(一六六二)の五三文を基準として、これに何割増という方法にかわる。そして天和三年(一六八三)までは上下があったが、これからは上がる一方で、宝永四年の九四文が正徳元年(一七一一)の元(もと)賃銭となった。すなわち正徳元年に道中奉行管轄の諸街道の賃銭を制定して、これ以後はそれを元賃銭として、これに何割を増減するという方法にしたのである。

第38表 元賃銭制定以後の江戸・品川間および品川・川崎間の賃銭(『品川町史』上巻七四〇ページ)
年号月 通用年間 割増高 本馬一疋 乗懸荷人共 軽尻馬一疋 人足一人 割増理由
江戸迄 川崎迄 江戸迄 川崎迄 江戸迄 川崎迄 江戸迄 川崎迄
正徳元年五 元賃銭 九四 一一四 九四 一一四 六一 七三 四七 五六
自安永三、十二
至天明元、十一
三割 一二一 一四七 一二一 一四七 七九 九五 六三 七三 天災流行病宿宿困難
自天明五、七
至寛政七、六
一〇 四〃 一三六 一五八 一三六 一五八 八五 一〇六 六六 七八 米価高値及び流行病の為
自寛政、十一正
至文化五、十二
一〇 二〃 一一七 一三六 一一七 一三六 七三 八八 五六 六七 銭相場下値宿困難
自文化六、正
至文化元、十二
一〇 継続 宿々困難
自文政二、正
至同十一、十二
一〇  〃
自同十二、正
至天保九、十二
一〇 一一七 一三六 一一七 一三六 七三 八八 五六 六七 宿々困難
自天保五、五
至、
五割 一四五 一六九 九二 一一四 七一 八四  〃
自天保八、三
至同八、五
三月 七〃  〃
自同八、六
至同八、八
繰延  〃
自天保十、五
至弘化元、四
五割 一四五 一六九 九二 一一四 七一 八四  〃
自同年五
至嘉永二、四
繰延  〃
自同年五
至安政元、四
 〃
自同年
至同四
 〃
自安政五、十二
至同六、五
五割 一六四 一九一 一六四 一九一 一〇八 一二八 八〇 九五 流行病
自安政六、五
至元治元、四
五〃 宿々困窮
自文久二、三
至同三、二
八〃  〃
自文久三、三
至元治元、
拾〃  〃
自元治元、三
至慶応、二
一五〃  〃
自元治元、十
至慶応元、二
二〇〃  〃

 

 正徳元年の元賃銭が享保十四年(一七二九)までは動かなったことが明らかであるが、それから安永三年までも変動がなかったようである。安永三年の割増は、近年の旱損あるいは流行病で宿々が困難したということが理由で、東海道・中山道・美濃路・佐屋路にわたって、七ヵ年の割増を認めたものである(『御触御書付留』)。また天保五年(一八三四)の五割増は、前の二割増の年限中にさらに三割増となって、合わせて五割増となったものである。

 また人馬賃銭の割増の理由には、宿々の困窮が理由になっていることが多いので、割増分が全部出人馬へ渡されるわけではない。その一部は宿場の助成金にまわされた。たとえば天保五年の例でみると、宿人馬の場合には、割増分五割のうち、一割五分を出人馬へ渡して、三割五分は問屋刎銭として宿の助成にする。また助郷勤めの場合には、一割を勤めた人馬に渡し、二割五分を問屋刎銭とし、一割五分を助郷刎銭として、助郷村の助成にしている。また割増銭のうち一文ずつを割砕銭見込として帳付へ渡しているが、これは受取った銭貨のうちに割れ銭や砕け銭のあったときを考えてのことである。それを実例で示すと、江戸まで本馬一疋の御定賃銭が九四文で、五割の割増は四七文である。宿人馬の場合は、このうち一割にあたる一四文は勤め馬に渡し、三割五分にあたる三三文は問屋場刎銭とする。軽尻馬のときは、五割増の三一文のうち、勤め馬へ九文、問屋場刎銭二一文、一文を割砕銭見込として帳付へ渡す。人足ならば、七文が勤め人足、一六文が問屋場刎銭、一文が割砕銭見込として帳付渡しとなる(『品川町史』上巻七四五ページ)。

 割増銭の配分は、いつでも右のように行なわれていたわけではなく、その時々で相違があった。文政二年から一〇年期二割増の場合は、江戸まで本馬一疋一一七文となったが、宿勤馬の場合は、割増の一九文のうち九文を宿方へ取り、一〇文を宿勤馬へ渡したので、宿勤馬は元賃銭と合わせて一〇八文となった。また助郷馬の場合には、元賃銭の九四文を助郷勤馬へ渡して、九文は宿方へ、一〇文は助郷村へ渡した(『五街道取締書物類寄』二五)。なお人馬賃銭にかぎらず、当時は九六文を一〇〇文と数える九六法ということが行なわれていたから、右の計算も九六法によるものである。

 問屋場刎銭はそのまま宿財政のうちへ繰り入れられるわけではなく、それを積み立てておき、貸付金の元金として、その利息を宿財政に入れる方法も講じられていた。

 また人馬賃銭中の本馬は一駄分の荷をつけた場合、軽尻馬は人が乗った場合であるが、それらについては後で述べることにする。

 幕府で公定した駄賃をのちには御定賃銭といい、高札(こうさつ)に記して高札場にかかげておいた。この賃銭で旅行者や荷物を運ぶのが本来であったが、のちにはそれが適用されるのは公用旅行者に限られるようになった。そのために、御定賃銭で人馬を使うことは特権となり、その範囲が定められることになった。享保八年の道中奉行の書上によると次のごとくである(『駅肝録』)。

一、京都御名代之大名              一、所司代

一、大坂御城代・同御城番            一、御三家え之上使

一、駿府御城代                 一、二条・大坂・駿府在番

一、大坂・駿府加番               一、遠国奉行并御用にて罷越候御役人

一、日光例幣使                 一、公家衆・御門跡方御使

一、大坂・堺御鉄砲并御火消           一、上州より麻殻灰

一、美濃御用紙                 一、越前御用紙

一、御代官往来

このなかの日光例幣使は安永七年(一七七八)に証文人馬を給せられるようになった。

 御定賃銭で人馬を使用できる人に制限が加えられると、その人馬数にも制限が行なわれて、その身分や旅行目的によって、その数が定められるようになった。参勤交代の大名は前記の御定賃銭使用者のなかには入っていないが、一定数の人馬は御定賃銭で利用できた。万治三年(一六六〇)の幕府の高札では、国持大名であっても、家中ともに一日に馬二五疋・人足二五人を超えてはいけないが、その上は駄賃銭を取って運ぶようにいっているので(『御当家令条』)、その数までは無賃であったということになる。天和二年(一六八二)の定では、東海道は国持大名は一日に五〇人・五〇疋まで、そのほかは二五人・二五疋までとし(同上)、正徳二年(一七一二)にも同様のことをいっている(『新撰憲法秘録』)。御定賃銭を払うようになった年代は不明で、文政四年(一八二一)四月の規定では、東海道通行の大名に許されたのは次のとおりである(『五街道便覧』)。

二〇万石以上

当日(大名通行の日)と、その前後一日ずつ、計三日間、五〇人・五〇疋ずつ。ただし松平備前守(福岡藩主、黒田氏)と松平肥前守(佐賀藩主、鍋島氏)は長崎警備の御用があるので、当日は一〇〇人・一〇〇疋、前後両日は五〇人・五〇疋。

一〇万石以上

当日ならびに前後のうち一日、計二日間、五〇人・五〇疋ずつ。

 これ以下については記載してないが、大名通行の当日だけ五〇人・五〇疋の使用を許されたものである。なお前後というのは、日を隔てなければ当日の前二日でも、後二日でもよいことになっていた。諸大名の家中が単独で旅行するときには、東海道では二五人・二五疋を使うことができた。参勤交代の大名は前から制限を受けていたのであるが、大名たちは朝遣い・夕遣いといって、朝夕二度五〇人・五〇疋ずつ使う慣行が生じていたので、このときに朝遣い・夕遣いという使用法を禁じたものである。

 御定賃銭で人馬を使用できるものは、このほかにも諸社の別当・神主・師職、あるいは僧侶でも認められているものがあったが、文政十年(一八二七)に、道中奉行から、大地の寺社は格別、そのほかは領主の用でなければ御定賃銭で使用することはできないと、宿々へ触れわたした。大地の寺社というのは、どこかという宿側の質問に対して、同十二年の寺社奉行の返答によれば、大社とは伊勢・石清水・宇佐・春日・賀茂・熱田・熊野・鹿島・北野・多賀および二二社・諸国一の宮、大寺とは東大寺・天王寺・興福寺・叡山・高野山・日光門主をはじめ門跡方・増上寺・京都知恩院・金戒光明寺・知恩寺・浄華院・妙心寺・大徳寺・越前の永平寺・能登の総持寺・遠州の可睡斎・金地院・宇治の万福寺・京の智積院・大和の小池坊・霊雲寺・身延の久遠寺・池上の本門寺・京の本圀寺・中山の法華寺・越後の本成寺・相州の清浄光寺等で、ほかにも数多いという返事であったが、結局は朱印地または由緒があって、将軍や大名家へ札守を納めるほどのものが標準であったようである。ただし出開帳の諸仏は、御定賃銭では人馬を使えないということであった(『五街道取締書物類寄』八)。

 また大名が江戸または国許で必要とする物資の輸送にも、一部は御定賃銭の人馬の使用が認められ、そのほか幕府の御用商人が御用品を運ぶときには許されていた。宿の問屋の旅行などでも、御定賃銭で使用できたのは、問屋場の裁量によるからであろう。