相対賃銭

632 ~ 634

御定賃銭で人馬を使用できない者は、相対(あいたい)賃銭によったのである。一般庶民や商人荷物などはすべてそれである。庶民の旅行のときには問屋場へはかからず、宿場や往還ばたにいる駕籠かきや馬士(まご)に直接に交渉をし、あるいはかれらにすすめられて利用するので、賃銭もまったくの相対であった。商品なども相対賃銭で、御定賃銭よりも高くかかるので、商人のなかには公家や武家から会符(えふ)(荷物に立てる木札)を借りて、御定賃銭で輸送するものがあって、宿と争論を生ずることがしばしばあった。


第161図 東叡山の会符
(日通資料室蔵)

 朱印状や証文で無賃の人馬の使用を認められた者も、その数を超過すれば、御定賃銭または相対賃銭の人馬を使い、参勤交代の大名のように、御定賃銭の人馬を定数だけ使用することを許されたものは、それを超過すれば、相対賃銭の人馬を使用しなければならない。宿の問屋は相対賃銭の人馬については義務はなかったが、多数の人馬を使用するものが、宿場についてから人馬を求めることは困難であるから、朱印状や証文で旅行する者も、御定賃銭で人馬を使う者も、その超過分の相対賃銭の人馬は問屋に依頼した。問屋としては、宿内の馬持や人足の利益にもなることであったから、その依頼に応じた。相対賃銭は本来変動があるものであるが、それでは旅行者には不便である。文政七年(一八二四)七月に、長崎奉行の高橋越前守から道中奉行に対して、相対賃銭は宿々でまちまちで、宿ごとに掛けあいをするのではなはだ手間どって迷惑であるから、掛けあいが円滑にいき、旅行にさしつかえないようにしてもらいたいと交渉があり、道中奉行は同月十九日に品川・板橋・千住・内藤新宿の宿役人に対して、長崎奉行そのほか御用旅行の者に対しては、相対賃銭は御定賃銭へ三割増程度に受け取り、宿々でまちまちにならないようにすることと、先々の宿へも申し送るように命じた。

 品川宿では、三割増の賃銭を相対雇の者へだけ渡しては、御定賃銭の人馬と不平等になるので、そのときに継立てをした人馬へ平均に分配し、相対雇の分は日〆帳へは記入せず別帳面を作って、人馬の員数や賃銭の受け払いを記しておくことにして、同年閏八月二十九日付で、品川宿問屋代役理右衛門と、助郷惣代の下大崎村名主庄八らが、道中奉行に届け出ている(『五街道取締書物類寄』六)。

 相対賃銭が御定賃銭の三割増というのは、御用旅行の場合だけで、五割増という宿もあったが、二倍が標準になっていた。このことは、御定賃銭が通常の賃銭より安く定められていたことを意味するもので、その分の負担を宿民や助郷の人々がしていたことになる。もっとも、近世の初めには相対賃銭という言葉もないので、初期には御定賃銭はそれほど不当のものではなく、宿や近隣の人馬にも利益を与えていたのであろう。しかし交通量が増大し、ことに元和九年(一六二三)には、二代将軍秀忠が、子の家光に職を譲るために、両人が上洛したときには、多数の大名・旗本が供奉し、寛永十一年(一六三四)に家光が上洛したときには、供奉するもの三十万余といわれる大行列であった。その翌年に出された武家諸法度では、参勤交代制度が確立し、これより年々に往来する大名の行列が、年中行事のごとくに行なわれた。さらに寛永十四年十月から翌年三月におよぶ島原の乱には、多数の軍隊が動員された。この間に、陸上では唯一の交通運輸の機関であった宿駅の機能が整ったのである。