慶長六年(一六〇一)正月に各宿に下した家康の奉行衆連署の伝馬定書では、伝馬は三六疋として、一日に一宿が提供する馬の数を限定している。もとよりこれは無賃で提供するもので、それを超えれば駄賃馬になる。この定書には人足のことが記されていないが、これは人足は徴用しないというのではなく、人足数は限定しなかったものであろう。戦国諸大名の伝馬制では、人足のことに触れていないのが通例で、馬を主体として、付随的な人足は特に規定していなかったのではないかと思う。
慶長九年六月に、肥後人吉(ひとよし)城主相良長毎が、その母を証人(人質)として伏見から江戸に送ったとき、家康は西国証人の初めとして大いに喜んで、伏見から江戸までの宿々に対して、伝馬二〇疋と人足三〇人を出すことを命じている(『相良家文書』)。この伝馬朱印状は二通で、伝馬と人足とを別々にしている。これらはともに無賃のものであった。また中山道の細久手宿は、慶長十五年に設けられたものであるが、そのときに大久保石見守(長安)は、伝馬二五疋・人足一〇人と定め、それ以外の人馬は駄賃を取るように命じている。これは近くの大井宿や御嵩宿でも同様であった(『濃州徇行記』)。さらに慶長十六年七月に幕府では、江戸から品川および板橋への駄賃を定め、人足賃は馬の半分とすることを命じている(『御当家令条』)。これらによって、馬とともに人足の提供も、初めから宿々に課せられた義務であることが明らかである。
東海道の宿で提供すべき馬の数は、慶長六年に三六匹と定められたが、その後に増加した年代は不分明である。『新編武蔵風土記稿』では、寛永十七年に曽根源左衛門(吉次)・伊奈半十郎(忠常)が巡見のときに、伝馬数を増して一〇〇疋と定め、品川宿の地子免許地も一万五〇〇〇石にしたとしている。また人足を一〇〇人にした年代はつまびらかではないが、寛永十年ごろといっていると記している。『品川町史』に引用の「地誌御調書上」には、寛永十年に杉田九郎兵衛・武藤利兵衛・曽根源左衛門・井上新左衛門の証文で、東海道宿々へ米一、七六四石余を、道の遠近に応じて、伝馬・人足ならびに飛脚給米として下付され、品川宿にも二六石九斗ずつ年々下付されて、南北品川伝馬役の百姓に配分している。その時節より一〇〇人が定数になったか、その後の書留には、いずれも一〇〇人・一〇〇疋となっている、と記している。『徳川実紀』には、同年三月に将軍家光の上洛にあたって、江戸から大坂までの各宿に、継飛脚給米五〇俵ずつを与えたことを記しているが、常備人馬を増したことは記載がない。寛永十年か十七年か不明であるが、そのころから一〇〇人・一〇〇疋の定数が決まったものであろう。しかし地子免許地が一万五〇〇〇坪になったのは、元文元年(一七三六)の資料では元禄十一年(一六九八)に五、〇〇〇坪増加してからのこととし、(資一六二号)『品川町史』でも慶長六年に五、〇〇〇坪であったのが、寛永十七年に五、〇〇〇坪を増し、元禄十一年にさらに五、〇〇〇坪を増したとしている。