歩行新宿の設置

636 ~ 638

伝馬を負担する者は、地子を免許された屋敷を配分され、それを伝馬屋敷というのが普通である。品川宿は南北に分かれていたので、地子免許地も折半されて、一万五〇〇〇坪の免許地は、南北に七、五〇〇坪ずつに分けられていたので、初めは一〇〇人・一〇〇疋の負担は両宿で半月ずつ勤めていたに違いない。ところが、北品川宿の北、すなわち高輪町寄りに次第に人家ができて新町を形成し、煮売(にうり)茶屋や旅籠屋などがつくられ、本宿が衰えるようになった。そのために、正徳年中に本宿と新町との間に争いが生じて、新町の旅籠屋の営業が禁止され、したがって食売女を置くことも停止された。ところが、このころには本宿で負担すべき人足役すなわち歩行役(かちやく)は、ほとんど新町で負担していたので、享保七年(一七二二)になって北品川の善福寺と法禅寺の両門前と新町とが、品川宿の加宿になることを求めて道中奉行所に願書を出した。その願書によると、品川宿の歩行役一〇〇人の規定であるが、北品川には一人もいず、南品川に八人いるに過ぎず、あとは両門前と新町とで勤仕し、享保五、六両年には一ヵ年に一万二〇〇〇人ほども出している。本宿と違って田畑はまったくなく、わずかな屋敷だけでこの大役を勤めているわけである。本宿には歩行役八人のほかに、小役人が六一人いるが、これは問屋場荷物手伝(てつだい)・御用荷物番・助郷人足触・掃除等をするだけであるのに、本宿ではそれを往還歩行役であるといって、両門前と新町は助郷同然に人足を出しているに過ぎないから、宿外であると称して、一〇年以前に両門前と新町の旅籠屋営業の禁止を訴え出し、そのときには両門前と新町との人足が歩行役を勤めていることが、問屋の帳面に記載されていなかったために、新町方の敗訴となって、給仕女を置くことが禁止された。しかしそれ以来、歩行役の勤仕については問屋どもの印を取っておいたので、勤仕については明瞭である。煮売茶屋ばかりでは、この大役を勤めることが困難であるから、両門前町と新町とを加宿にして、本宿並に旅籠屋を営業し、一軒に二人ずつの食売女を置くことを許可されたいというのであった。

 道中奉行所では、代官伊奈半左衛門に調査を命じたところ、南北品川の名主・問屋・年寄たちがいうには、両門前と新町とは、先年から宿外煮売茶屋がある助郷同然の地人足場で、北品川には四、五年以来必要しだいに人足を出してき、南町へは一三人ずつ差し出してきたが、これは歩行役ではない。本宿歩行役の者には地子免許がある。そして南北品川の歩行役は六九人いるが、そのうち八人は朱印状の人足を勤め、六一人は問屋場荷付手伝・御用の荷番その他、往還の輸送元の仕事をしている。道中の宿々の茶屋町には旅籠屋はなく、女も置かないのに、もし新町が加宿になれば、旅籠屋が増加して旅人が入りこむので、本宿が衰えるから、これまでどおりにしておいて頂きたいというのである。

 これに対して、道中奉行所で代官所に調べさせたところ、規定の歩行役一〇〇人のうち、北町には往還歩行役は一人もなく、両門前および新町より残らず勤め、南町には歩行役が八人いるが、ほかに小役人一三人が一組になって、一日に歩行役一人ずつを出し、海晏(かいあん)寺・海雲寺・長徳寺・品川(ほんせん)寺の四ヵ寺の門前が組合になって、一ヵ月のうち一五日間、本歩行役四人ずつを出し、一日に計一三人を差出しているが、そのほかはすべて両門前と新町とで勤めている。本宿に歩行役六九人があるといっているのは事実に相違しており、帳面を調べさせたところ、七、八年以来、両門前と新町で一ヵ年に一万二〇〇〇人ほどずつを、家数九七軒で出してきたことは間違いがない。

 また北町から追願して、これまで人足の不足分を全部、両門前と新町とに勤めさせてきたのであるが、加宿を願い出して本宿の障りになるから、往古に両門前と新町で出していた四人の人足に五割増として六人ずつ毎日出させ、不足分は馬役の者が負担をしたいと訴え出したが、奉行所ではこれをしりぞけた。すなわち、北町には歩行役の家はまったくなく、馬持にも絶えている者もあって、新規に人馬の両役を勤めることができるわけがない。結局は、助郷に臨時に勤めさせる魂胆と思われる。つぎに、神奈川町は茶屋町から人足を入用しだいに出しているが、煮売ばかりをしており、千住町は馬役の者が歩行役も勤めている例を申し立てているが、神奈川・千住は格別に宿高も高く(品川宿が九八七石余に対して、神奈川宿は一、七二七石余、千住宿は一、五九〇石余)、ことに馬役・歩行役ともに余計あって不足がない。勤め方は宿々で違いがあるので、北町の申し分が立ちがたいというのである。

 道中奉行所で下した裁許は、品川一宿の一〇〇人の歩行役を、南町一三人のほかは、両門前・新町で前々から勤めてきたことは分明である。これによって、このたび茶屋町の名目をやめ、歩行新宿と改めて加宿に申しつけるから、食売女を一人ずつ置いて、今後は旅籠商売をすることを認める。またこれまでは、品川一宿が南町と北町とに分けて半月ずつ勤めたので、助郷では人馬の負担が多くなって困窮しているので、こんどは南北打込みにして、不公平のないように勤めなければならない、というものであった(資一六〇号)。

 これによって、新しく歩行新宿が生まれ、従来の南北の品川宿とともに、三つの宿が人馬の負担をすることになったのである。これ以後の人馬役の負担は、どういう方法で行なわれていたかを、元文元年(一七三六)の資料でみると次のごとくである(資一六二号)