伝馬屋敷

639 ~ 641

馬役の家は南北品川で一四六軒あるが、うち七七軒は南品川宿にある。そのうちの六九軒は丸役(一軒前の負担をする家)で、残り八軒は半役(丸役の半分を負担する家)である。これらの者の地子免許の割合は、居屋敷の間口の広狭や、田畑の多少に関係なく、往古よりの御伝馬役株と称して、一軒につき八四坪ずつ与えられている。もっとも半役の八軒は往還町並には住まないで、裏町通りにいるので、古来半役の勤めしかしないが、御伝馬役株であるから丸役なみに免許を与えられている。ほかに問屋役屋敷が一軒ある。この役屋敷は御伝馬役株のうちであるが、地子免許は七四坪半である。他より少ないが、町抱(まちかかえ)の役屋敷であるから、これだけの坪数がつけられていた。

 北品川宿には馬役の家が六八軒あり、うち六六軒が丸役、二軒は半役勤めで、居屋敷の間口の広狭に関係なく、一軒に一〇〇坪の免許を与えられていた。半役が裏町通りに住んでいる家であることは、南品川と同じであるが、免許地が南品川より広いのは、御伝馬役株が少ないからで、勤め方は南町と同じである。

 つぎに南品川本宿歩行役の家が一〇軒ある。うち四軒は免許が三〇坪ずつ、四軒は一五坪ずつ、一軒は二〇坪、一軒は七坪の免許があるが、坪数の多少はどういう理由によったものかはっきりしない。勤め方は一〇軒で毎日一人ずつを出して、御伝馬役の者に加えて継飛脚御状箱(幕府公用の書状箱)の持送りの加勢をさせる。

 また南北品川歩行小役の家が四七軒あり、うち二五軒は南品川本宿にいるが、裏町通りに住み、田地を持たないもので、間口の広狭に関係なく、三〇坪ずつの免許地を与えられている。勤め方は、往還荷付手伝・御用物荷番・助郷人馬触・在方御用状持送り・耕地野廻り番・野道掃除・地方人足役などを勤め、往還賃人足は勤めない。

 同じ勤め方をする家は、北品川宿には二〇軒あるが、南町より軒数が少ないので、免許地は三四坪ずつである。また北品川宿には小役半軒分を勤める家が一軒あり、二〇坪の免許地を与えられている。この一軒は、町割りをしたときの残り屋敷であったから、半軒分勤めることになったものである。ほかに北品川宿には免許地がなくて歩行小役を勤める家が一軒あるが、これは闕所屋敷(犯罪者より没収した屋敷)で、歩行小役屋敷として下付されたものである。

 歩行新宿には家数九八軒あるが、ここは地子免許地や継飛脚給米には関係なく、旅籠屋を建て、食売女一人ずつを置くことを許されて、加宿になったもので、往還歩行役を勤めている。ほかに南品川宿の四ヵ寺の門前から、毎日昼夜歩行役四人ずつを新宿へ出して、合わせて規定の一〇〇人の歩行役を勤めている。

 右の勤め方は、家々の石高に比例するものではなく、昔から差別なしに軒役として勤めている。また地子免許は伝馬の者たちが配分して、残りを本宿の囲(かこい)の内に住んでいる歩行役・小役の者に割り合い、頂戴している。

 以上は伝馬屋敷の配分方法や勤め方の大要であるが、右に示された坪数の総計は一万四九九九・五坪で、地子免許の一万五〇〇〇坪にみあうものである。うち北品川宿が七、五〇〇坪、南品川宿が七、四九九・五坪である。伝馬屋敷は、街道に沿っているもののほか、裏町通りにあるものもあった。個々の居屋敷は間口にも広狭があり、したがって総坪数も不明であったが、地子免許は南品川宿では八四坪ずつ、北品川宿では一〇〇坪ずつで、その分だけ免除されたことになる。歩行役や歩行小役になると、地子免許の面積もさらに少なくなっていた。最大でも一〇〇坪、小さいものでは七坪というような土地の地子が免除される代償として、毎日馬や人足を提供しなければならなかったので、交通量が増加するにつれて宿民の負担が増し、困窮の度を加えることになった。

 品川宿では、他の東海道の諸宿と同じに、一日に一〇〇人の人足と一〇〇疋の馬を提供する義務を負っていたわけであるが、いつのころからか、歩行役一〇〇人の大部分は、北隣りに新しく発達した新町に負担させるようになり、享保七年に、新町が歩行新宿として認められるようになった経過は、前に記したとおりである。そこで、南北品川本宿は伝馬役と一部の歩行役を負担し、歩行役の大部分は歩行新宿で負担することになった。

 歩行新宿は伝馬屋敷としての地子免許はなく、まったく義務だけを課せられたのである。したがって宿そのものの一部になったのではなく、宿の負担のうち一部分を肩代わりしたもので、こういう場合を加宿(かしゅく)という。加宿には宿立(しゅくだて)の馬のうちを何疋とか、人足を何人とか、数に限定をつけている場合が多いが、品川の場合では、南品川の四ヵ寺門前から四人ずつ人足を出すほかは、すべて加宿である歩行新宿で負担をしたのである。そして歩行新宿が代償として得たのは、旅籠屋を営業することと、その一軒に一人ずつの食売女を置くことを認められたことであった。品川では、旅館業としての旅籠屋よりも、食売女を置くことによって利益をあげたのである。本宿では一軒に二人ずつ許されていたから、その半分ではあるが、現実にはその数は少しも守られてはいなかったから、営業が許されたということに意味があったのである。食売女のことは別に述べることとする。