東海道の宿では、慶長六年には馬三六疋、その後人馬数がふえて、おそくとも寛永年中には、一宿で一〇〇人・一〇〇疋の人馬を提供する義務を負わせられたが、これは一日に勤める数である。そのうち伝馬といって、無賃で提供しなければならない数はそれほど多くはないが、賃銭をとっての人馬を加えると、日によって異なるが、定数を超えることはしばしばある。その場合には、近隣の村から人馬を集めて数をそろえなければならない。はじめは必要に応じて臨時に集めたのであるが、のちには制度化されて、宿ごとに人馬を提供すべき村が道中奉行から指定され、その村を助郷(すけごう)というようになった。
助郷がいつから始まったかについては多くの説があるが、明確に年代をきめることは困難である。それらの説のなかに元和二年(一六一六)というのがあるが、これは同年十一月に板倉勝重・本多正純らの幕府の年寄衆(のちの老中)が宿々に出した定書のなかに、伝馬と駄賃荷を付けるときには、宿中の馬のあり次第に付けること、もし駄賃馬が多く要るときには、その町から在々の馬を雇い、荷物が遅れないように、風雨をいとわず出すこと、と命じていることによる(資二〇三号)。このなかに伝馬と駄賃馬を区別しているが、伝馬は無賃のもので、これは宿の負担で、駄賃馬が多く入用のときには在々から雇うことにしていて、これは後々までの原則となっている。また宿の馬を全部出して、足りないときに在々の馬を雇うのも後年までのきまりである。しかし、この定書は、駄賃馬を出す村を指定しているわけでもなく、その町、すなわち宿から相対で雇うことをいっているので、助郷制度の起原とはいえない。近村から馬を雇うことは、以前からも行なわれていたであろうし、同じ文言の定書は、この後もくり返して出されており、ずっと後の天和二年(一六八二)にも出されている(資二一八号)。そこで、この定書から助郷が元和二年に創始されたとはいえない。
また元和五年四月に、中山道全宿に助郷制度が実施されたという説がある。これは『駅遞志稿考証』にあるもので、「中山道助郷濫觴ノ事」として、知行高一〇〇石に詰夫一人を出すことや、一六〇石ごとに伝馬・馬夫を一疋、一人ずつ出させることなどを命じたことを記している。しかしこの史料は、三州岡崎領古文書で、発行者は「御墨印」とあって、将軍の印かと思われるが、宛名は下和田村とあって、中山道各駅を意味するものではない。下和田村を和田峠の和田村と解釈したために、中山道ということになったのではあるまいか。文書の内容も、京都への詰夫などのことで、「考証」に「伝馬・馬夫」と記しているところは、原文には「上下立替之馬」とあって、伝馬のことではない。あとの箇条に、京都へ詰夫ならびに立替を召しつれた者には、夫米を免除するということがある。そのほか、「地頭在京中」などの文言もあり、この年の五月に将軍秀忠が上洛しているので、それに関連して旗本の知行所に出されたものではないかと考えられる。いずれにしても、元和五年に中山道全駅に助郷制度を施行したという説は成立しない。
つぎに寛永十四年(一六三七)に、浜松宿で助郷が付属させられたということから、東海道全宿にも助郷が付けられたのではないかという説がある。浜松宿の助郷のことは、「浜松宿御役所由来記」(『浜松市史』史料編一)にあるもので、同年三月に伊場村外四ヵ村で、高二、〇一三石が助郷に付けられたというもので、そのときの御定目によれば、助馬に付けられた郷村は、町役同然に高役を免除すること、町馬で不足のときは助馬を出すこと、それでも不足のときには、御料(幕領)・私領にかかわらず、近辺の馬を出して駄賃をとることなどを規定している。さらに同宿の「糀屋記録」には、寛永十四年三月に、道中宿々へ助馬を命ぜられたとき、浜松へ命ぜられた書付の文言として、同じ文を収めている(同上)。同書には定助村として五ヵ村が指定され、計五〇疋の役馬が割りあてられたことが記されており、村ごとにその数が定められている。そして元禄七年になって、役馬七七疋が増加して、一二七疋になったとしている。
浜松に出した御定目の発行者は市橋三四郎長吉と大河内善兵衛正勝で、長吉は目付で知行三、〇〇〇石、正勝は使番で知行一、四五〇石余であり、翌十五年に、長吉は島原の乱に将軍の上使として赴き、正勝は乱後に長崎奉行となっている。この文章は疑うことはできないように思われるので、助馬村を指定したことは、少なくともこのときには確実といえよう。東海道の全宿に助馬村を指定したか否かについては、他に資料がないけれども、こういう制度を、一宿だけに採用することはあり得ないから、大部分の宿に助馬村を指定したとみてよいであろう。もとより助馬村の指定には宿によって遅速があり、東海道のうちでも、由比・箱根・伏見などの宿には、のちにいたるまで助郷がつけられなかった。また中山道その他の街道では、東海道よりおくれて助郷が指定されている。
助郷というものを、宿駅に人馬が不足したときに、その補充をする村と考えれば、すでにこれより前からあり、宿と村とで相対で契約をしていたこともありうるので、それを相対助郷と呼んで、幕府指定の助郷と区別することもあるが、助郷に指定されることは、義務として労役を課されたことになるので、相対で人馬を提供するのとは、性格が異なるのである。