万治元年(一六五八)十二月に、宿々の問屋・庄屋・組頭・定使より、「助馬をした村の馬に、付けにくい荷物を付けさせ、付けよい荷物は町の馬にばかり付けさせたり、必要もない馬を朝から呼びよせたり、用もないのに日暮れまでとめておくようなことはしない。助馬の者から金子を預かって、馬を請け負うことはしない。」という起請文(きしょうもん)を徴する一方では、助馬村の庄屋・組頭・定使から「何町へ助馬のことを仰せつけられたので、少しもわがままのことはしない。何町から触れがありしだいに、きっと馬を出す。何町の衆を頼んで、金子で馬を請け負わせることはしない。」などという起請文を取っている(資一五三号)。
助馬村が出した起請文の「何町」というところには、特定の宿が入っていたわけであるから、助馬村から一定の宿へ助馬を出すことが義務づけられていて、宿場が必要に応じて不特定の村から、馬を集めるものではないことが明らかである。この起請文を徴したのは大目付と勘定奉行とであって、まだ道中奉行ができないときであるが、街道の最高管理責任者である。
この起請文を徴するときに出した通達によれば、一宿に伝馬を一〇〇疋ずつ持つように前に命じてあるが、一〇〇疋に不足している宿もあるということである。どうして不足するようになったのか、馬主ひとりずつ、その理由を書いて差し出すように、と命じている。宿で規定数の馬を常備できないということは、馬を持つことが経済的に不利益であるということが主要な原因であろう。大豆等の飼料が高くなるのに、御定賃銭はそれほどに引き上げられない。また無賃の伝馬も勤めなければならない。それが宿馬の不足となり、公用旅行者の増加と相まって、助馬村の設立を必要としたものと思う。
助馬村の制度は、この万治元年より前に始まっていたとみられる。前述したように、宿から出した起請文には、「助馬の者から金子を預かって、馬を請け負うことはしない」とあり、助馬村の起請文には、「町の衆に頼んで、金子で馬を請け負わせることはしない」とある。これによって、すでに宿の近隣の村に、助馬が義務として課せられていたために、金子で請け負わせる者がいたことを知るのである。もし相対で馬を雇っていたならば、このような請負制は生じなかったはずである。したがって、この史料は助馬制度はすでに万治元年以前から存したことを物語っている。なお、これと同じ起請文は、この後も徴されているので、ある特定の時に一度かぎり徴されたものではない。
そうみてくれば、さきの寛永十四年に、東海道に助馬村が指定されたという浜松宿の史料が真実味を増してくる。『品川町史』では、各駅に助郷が置かれたのは明暦三年(一六五七)としているが(上巻五一〇ページ)、確実な史料は示されていない。その後、元禄七年(一六九四)に至って、助郷制度が整備された。『駅肝録』には、元禄二年(一六八九)に、それまでの助郷が、領分や国郡を境にしていたため渋滞したので、宿場に近い村を指定したということを記し、また元禄七年には、それ以前には定まった助郷というものがなく、宿の人馬が不足をすれば、近村から人馬を雇って継ぎ送ってきたが、通行も多く、故障を来たすので、宿々から願い出て、この年に宿々の助郷を定めたと申告している。その記述には矛盾もあるが、もともとこの書は、道中奉行所などで備忘のために、のちになって古い布達類を編修したものであるから、このような矛盾が生じたと思われる。
元禄二年に助郷を定めたということも一概に否定できないが、元禄七年の整備は、多くの宿に、この年の助郷帳が残っていることで疑いのないところである。浜松の「糀屋記録」によれば、細井九右衛門(政次)・竹村惣左衛門(嘉躬)・設楽勘左衛門(能久)の三名が道中巡見のために西上し、宿々が困窮していることを聞きとどけて、江戸に下ってのち、元禄七年に、宿々へ定助郷と大助郷の人馬を増加してくれたと記しており、浜松に三人が泊まったのは元禄六年二月四日であったという(『浜松市史』資料編一)。この三名は幕府の代官を勤めていた者たちである。
助郷という名称もこのときに確定したもののようで、これ以前は助馬村などということが普通であった。おそらく、これまでは馬を提供することが主体であったからであろう。