品川の定助郷

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元禄七年以来、道中奉行が助郷を指定する場合には、助郷帳を宿に渡し、助郷の村には、その写をとっておくことが義務づけられた。品川宿の元禄七年のものは残っていないが、のちの記録によれば、定(じょう)助郷一六ヵ村、大(だい)助郷三八ヵ村で、計五四ヵ村であった(『品川町史』上巻五一〇ページ)。定助郷は、宿駅の人馬が不足したときには、つねに補充する義務を有する村であり、大助郷は、大通行があって定助郷の人馬では不足のときに、臨時に課役に従事するものであった。

 『品川町史』(上巻五一〇ページ)によると、正徳二年(一七一二)に改定があって、証文高一万七九六九石、村数五八ヵ村になったというが、『新編武蔵風土記稿』では、正徳六年(享保元年)に改定されて、荏原郡に四九ヵ村、豊島郡内に一二ヵ村であったとし、計六一ヵ村となり、若干のくいちがいがある。その後、享保十年に、諸宿の助郷の改編が行なわれ、定助郷と大助郷の別もなくなったが、このときの品川宿の助郷は五七ヵ村で、高一万七六六七石である。うち荏原郡に四五ヵ村、豊島郡に一二ヵ村で、村名を挙げると次のごとくである(『品川町史』上巻五一〇ページ)。

荏原郡

 高一八九石  下高輪町     高四五八石  新井宿村

 高三六〇石  桐ケ谷村     高四五四石  上大崎村

 高三一二石  下大崎村     高九一七石  戸越村

 高二三〇石  居木橋村     高二七五石  下蛇窪村

 高一八五石  上蛇窪村     高一六三四石 大井村

 高五六九石  不入斗村     高九四石   二日五日村

 高九八石   白金台町     高一〇八石  谷山村

 高一七九石  上高輪町     高六一七石  東大森村

 高四一九石  西大森村     高四四〇石  北大森村

 高五九九石  糀谷村      高一九二石  女塚村

 高二六三石  六郷久ケ原村   高七四石   堤方村

 高一六二石  市野倉村     高六七石   桐谷村

 高五一八石  馬込村      高五七三石  池上村

 高五四四石  雪ケ谷村     高二六九石  小山村

 高二六二石  萩中村      高三一一石  中延村

 高一五〇石  道々橋村     高三四〇石  白金村

 高三二七石  今里村      高二三九石  三田村

 高三〇二石  下袋村      高九〇石   道塚村

 高五五石   奥沢村      高四〇七石  奥沢新田村

 高二二八石  下丸子村     高七四石   石川村

 高一〇七二石 上目黒村     高三三四石  鵜木村

 高八三四石  嶺村       高二二五石  碑文谷村

 高四四六石  深沢村

豊島郡

 高六一石   芝町       高五九石   下渋谷村

 高一八〇石  中渋谷村     高二九石   龍土町

 高二九〇石  阿佐布(麻布)町 高六四石   桜田町

 高七四石   飯倉町      高五八石   金杉町

 高六七石  今井町

 高一三九石 下豊沢村

 高一一九石 中豊沢村

 高三二石  上豊沢村

 以上にみる助郷は、大部分が今日の品川区内にあるが、一部は港区・渋谷区・目黒区・大森区にも及んでいる。品川宿に近い村もあるが、五キロ、六キロ、あるいは一〇キロ以上に及ぶ村も多く、毎日人馬を提供することは容易なことではなかった。


第162図 御鷹場地図(一部)
品川宿の助郷村は御鷹場と重なっていたところが多い。