助郷村は助郷高に比例して人馬を出すので、大井村・上目黒村・戸越村などは負担が重かったが、それらの村は村方も大きく、人口も多かったので、家あたりの負担はほぼ平均していた。助郷村は、その後に変動があり、上目黒村は早くも享保十四年には助郷免除になっている。その理由は、同村が将軍家の鷹狩の御拳場(おこぶしば)である上に、駒場野御用を勤め、御用屋敷・武家抱屋敷・御留場御用など多くの課役を負担していたので、赦免願が認められたものである。そのかわりに、荏原郡内の下沼部村と上沼部村の二ヵ村が助郷に指定された(資一九二号)。
寛保三年(一七四三)には、豊島郡の麻布町・今井村・龍土町、荏原郡の下高輪村の勤高のうち、御用地になったり新しく堀敷(ほりしき)になった分として、麻布町は四〇石、今井村と下高輪村は各五石、龍土町は四石を減じ、寛延三年(一七五〇)には、さらに下高輪村から一二石五斗五升分の助郷高を免除した。天明七年(一七八七)には上大崎村の助郷高から二四石八斗余を免除し、嘉永六年(一八五三)には下高輪町の二五石一斗五升を免除し、安政五年(一八五八)には三田村の一四石一斗三升九合分が、合薬製所御用地として鉄炮玉薬奉行に渡されたので、その分を免除し、慶応元年(一八六五)には上豊沢村・中豊沢村・中渋谷村の三ヵ村が、和泉新田の塩〓蔵警衛付の村に指定されたので、その助郷は全免された。こうして助郷高は次第に減少して、幕末には一万七〇〇〇石となった(資一九二号)。助郷を免除された理由は、上目黒村のように、他の課役が重いためのもの、上豊沢村などのように、幕府の他の課役が掛けられたもの、大名の拝領地になったものなどがあるが、減免された分は、残りの助郷で負担したのである。
定助郷村の村数は、享保十四年に上目黒村が免除されて、下沼部村と上沼部村とが加わって五八ヵ村となったが、その後若干増加して、六〇ヵ村以上となっている。幕末では定助郷村は六二ヵ村であった(資一八二・一八四号)。
助郷に指定されると、重い負担から抜け出すことができなくなるが、多くの宿では種々の理由をあげて免除を歎願した。なかには、他の村を助郷にするように名をあげて願い出ることもあり、名ざしをされた村を差村(さしむら)という。道中奉行所では、事情を調査して、願いを却下することもあり、また助郷役の一部を免除したり、年季をきめて、その期間中は休ませることもあった。免除や休役になれば、他の助郷の負担がそれだけ増加するので、代わりの助郷を命ずることもある。上目黒村の助郷役を免除したときに、下沼部村と上沼部村とを助郷にしたのはその例である。しかし品川宿の助郷の場合は、他の例では新たに助郷を指定したことはなく、すべて残りの助郷で余荷(よない)づとめをするように命じている(資一九二号)。余荷とは助力または補充の意味で、結局助郷高の減少した分だけ、他の助郷村の負担が増したわけである。
助郷は一般には、その高に比例して人馬を提供したが、品川宿では道中奉行の命で、享保十二年より二組に分けて、隔年に勤務することになった。しかし農産物の価格が下がって、農民が困窮して、馬を所持していることができなくなると、隔年勤めでは馬数が不足して困るというので、同十六年に、助郷村から道中奉行に対して、隔年勤めをやめて惣高勤めにするように願書を出したが、許可されなかったので、隔年勤めの方法は幕末までつづいた。
その方法は、幕末の記録によると、助郷六二ヵ村のうち、三四ヵ村と二八ヵ村の二組に分けて、一年交代に勤務するもので、毎年七月より翌年六月までを一期としていた。しかし、通行者が多く、先触の人馬を計算して、総助郷高に平均して、一〇〇石に七人五分以上になれば、勤め中と休み中の差別なく、六二ヵ村へ人馬を触れあてる。もっとも、公家や大家の通行で、当分助郷を願い出るようなときには、右の触書に関係なく、惣助郷村に人馬を触れあてる。二組に分けた村は次のとおりである(『品川町史』上巻五一六ページ)。
高八千七百二十六石 三十四ヵ村
武州荏原郡
戸越村 桐ケ谷村 谷山村 上大崎村 下大崎村 居木橋村 北大森村 東大森村 西大森村 女塚村 下袋村 糀谷村 萩中村 堤方村 久ケ原村 峯村 鵜木村 下丸子村 道塚村 今里村 白金村 白金台町 上高輪町
武州豊島郡
下豊沢村 下渋谷村 同村 野崎組 中渋谷村 中豊沢村 上豊沢村 金杉村 麻布 北日ケ窪町 桜田町 龍土町 今井町
高八千六百八十八石 二八カ村
武州荏原郡
下入斗村 新居宿村 大井村 上蛇窪村 下蛇窪村 二日五日市村 馬込 桐ケ谷村 御料 馬込村 中延村 小山村 碑文谷村 下沼部村 市野倉村 雪ケ谷村 奥沢村 新田村 石川村 深沢村 下高輪町 下高輪村 三田町 芝町 池上村 道々橋村
武州豊島郡
飯倉町 麻布町
この二組には、人馬割りあての触状を出すときに、三四ヵ村組には五触、二八ヵ村組は四触出したので、五触三四ヵ村、四触二八ヵ村という言いかたをした。