定助郷の勤め方

653 ~ 655

定助郷は宿人馬で不足するときには、必要な人馬を出さなければならないのであるが、品川宿の定助郷中には町場も含まれていて、正人馬を出すことができず、雇揚(やといあげ)銭を出して、宿場で人馬を雇った。そのうち次の一八ヵ村は早くから雇揚助郷であった。

荏原郡 下高輪村 下高輪町 三田町 今里村 白金台町 上高輪町

豊島郡 芝町 金杉町 飯倉町 麻布町 桜田町 龍土町 今井町 北日ケ窪町 下豊沢町 下渋谷村 同村野崎組

 これらの町村は、町場のところと、村方では武家や寺院の抱(かかえ)屋敷が多くて、正人馬で勤めることが困難な場所であった。雇揚賃銭はそのつど宿に支払うものであったが、滞りがちになるので、備金を助郷惣代に渡しておき、月送り勘定にすることにした。しかし、それも実行されず、天保二年(一八三一)には下高輪町・下高輪村・三田町・芝町・飯倉町・麻布町は備金を出さないために、宿役人と助郷惣代とが、高一〇〇石につき一〇両ずつの備金を出すように、代官所から指令してもらいたいと訴え出ている(『品川町史』上巻五九四ページ)。雇揚勤めの村は、その後少し増加して、慶応元年(一八六五)には、二一ヵ村になり、全体のほぼ三分の一が定雇勤めの村になっている(同五八六ページ)。

 定助郷の村は一年交代に勤め、勤番と休番とになるが、勤番組の村から惣代を選んで、宿内の助郷会所に詰める。これを助郷惣代という。助郷惣代は、問屋から助郷への人馬触れあてに不正がないか否か、ことに宿人馬を使いきってから触れあてているか否かを監視し、また助郷村々からの出人馬を調べて、助郷高に応じた数にならないときには、その調節をするなどの役目を持っている。毎日の使用人馬数と、そのうちの宿人馬と助郷人馬の内訳を記した日〆(ひじめ)帳の作成は、最も大事な仕事で、宿によっては宿役人と助郷惣代がなれあいで、助郷人馬を多く出させ、助郷惣代が宿役人より金銭を受取るような不正もおこなわれた。

 助郷惣代は村役人がなることが多かったが、村々の用務もあり、すべての村から出すことは困難であるから、若干の村から出て、他の村は諸経費の分担をした。弘化四年(一八四七)七月からは、二八ヵ村組が勤番に当たったが、このときには下蛇窪・大井・新井宿・馬込・中延・道々橋・雪ケ谷・下高輪の八ヵ村の名主が惣代となり、一日には二人ずつが出勤することとなった。助郷会所での惣代の飯料として、それまで一人につき一昼夜で銀二匁ずつであったが、弘化二年に、諸色が高値になって引き合わないという賄屋の申出で、この年から銀二匁二分ずつとなっていた(『品川町史』上巻五九六ページ)。

 またこの年七月に勤番助郷の二八ヵ村の村役人が助郷会所へ集まって、助郷人馬の勤め方について議定書を作った。それには、

一、問屋役人から触れあてのとおり、詰刻(つめこく)におくれないように出勤する。重役と唱えて、一人で二人役または三人役を引き受けて出る者がいるが、大切の御用の手違いになる基であるから、右様の重役など請け持つ者がないように、小前の出人馬の者へきびしく申付けて差出すこと。

一、出人馬が途中で病気などの余儀ない理由のほかは、未進(みしん)などはないはずであるが、もし右様のことで出人馬に不足があれば、到着者の名前の書抜を助郷会所から通達次第に取り調べて、やむを得ない未進があれば、一人につき銭三〇〇文ずつ取り立てて、早速助郷会所に差出すこと。

一、買揚雇の助郷村は、人馬賄方備金を出しておき、一ヵ月ごとに雇高を調べて、賃銭を遅滞なく持参し、備金は揚り番(休番)になったときに受け取ること。

一、触状の継立がおくれては、出人馬や賃銭取集めに差しつかえがあるから、少しも遅れないように、昼夜とも継ぎ立てること。

 こういう議定をつくっているが(『品川町史』上巻五九七ページ)、実際の運営にはしばしば障害があり、宿と助郷間に、あるいは助郷村相互の間に紛争が生じたのである。