助郷には定助郷のほかに増(まし)助郷・加(か)助郷・当分助郷などがあるが、品川宿では、定助郷のほかに加助郷が指定されていた。加助郷は特別の大通行があって、宿と定助郷の人馬では不足するときに、宿と助郷とからあらかじめ願い出て、人馬を触れあてることができる村々である。
品川宿では、享保十六年(一七三一)に、大通行のときには、定助郷だけでは足りないという理由で訴え出て、代官伊奈半左衛門(忠逵(ただみち))の役所で村の遠近などを調べた上で、加助郷二一ヵ村を指定したが、寛政元年(一七八九)に、豊島郡の代々木村と角筈(つのはず)村(現在新宿区)とが、甲州道中の内藤新宿の助郷に指定されたので、その後は一九ヵ村で、助郷高は三、〇三九名となった。その村名と助郷高は次のごとくである(『品川町史』上巻五一九ページ)。
高二一八石 橘樹郡 久本村 三里余
高二五四石 末長村 三里半余
高二二五石 下作延村 同断
高一四九石 上作延村 同断
高二三六石 梶ケ谷村 同断
高四九六石 馬衣村 四里余
合一五七八石 六ヵ村
高一二九石 北見方村 三里半余
高六二石 諏訪河原村 同断
高一八一石 久地村 同断
高三三三石 下菅生村 五里
合七〇五石 四ヵ村
高七七石 豊島郡 下渋谷村 一里半
高一二三石 同野崎組 同断
高二五石 下渋谷村 同断
高二三石 宮増村 弐里
高一三五石 上渋谷村 同断
合三八三石 五ヵ村
高六石 市兵衛町 壱里
高一一石 谷町 壱里半
高二六二石 原宿村 弐里
高九四石 穏田村 弐里余
合三七三石 四ヵ村
四組に分かれているのは、人馬触の伝達の便によるもので、定助郷でも五組に分かれていて、触口の村から順次に村送りをして伝えるのであった。また初めの二組一〇ヵ村は、遠在加助郷といい、あとの二組九ヵ村は江戸組加助郷といった。定助郷では、大部分が二里(八キロ弱)以内の距離で、近いものは一八町(二キロ弱)ぐらいであったが、加助郷になると、多くは二里以上で、五里に及ぶものもあった。
加助郷は定助郷とは違って、宿人馬が不足したからといって、すぐに人馬を触れあてられるものではなく、特別の大通行のときに、宿や定助郷から願い出て、道中奉行の証文をもらって触れあてるものである。同じように、定助郷の人馬を補うものに増助郷があるが、これは年季を含めて指定されている助郷である。加助郷に対して増加助郷というものもあり、これは増助郷の年季中に、加助郷の不足を補うものであるから、やはり大通行のときに限られる。
これに対して、まったく臨時に指定される助郷を当分助郷という。当分という言葉は、当座の、あるいは現在の、という意味に用いられる。しかし、これも大通行の際に指定されるので、加助郷と類以しているが、加助郷はあらかじめ指定されている。延享二年(一七四五)五月に日光門主が下向するときに、人馬不足という理由で、道中奉行から増助郷が指定されたが、これも門主の通行中に限ったものであるから、本来は当分助郷というべきものであろう。その村々は、谷町・市兵衛町・上渋谷村・穏田村・原宿村・野沢村・下馬引沢村・上馬引沢村・池沢村・池尻村・三宿村・下北沢村・太子堂村・代田村・赤堤村の一五ヵ村で、このうち野沢以下の一〇ヵ村は甲州道中の高井土(高井戸)宿の助郷村であったが、品川宿の近村に助郷に指定されていない村がなかったので、臨時のこととして指定されたもので、これらは今の世田谷区内にある村である。残りの五ヵ村は、前述したように、前に加助郷に指定されていたところであるが、加助郷としての助郷高の残りの高に増助郷が課せられたものかどうかは明らかではない(『品川町史』上巻五二一ページ)。
同年の十月にも、将軍家重の継統について祝儀のために下向した勅使などの公家や、その謝礼のために上京した将軍の名代などのために、増助郷が指定され、前記一五ヵ町村のほかに、宮益町・若林村・松原村・経堂在家村・船橋村・小船橋村・廻リ沢村・尾山村・上野毛村・下野毛村・野良田村・岡本村・大蔵村・鎌田村・弦巻村・用賀村の一六ヵ村で、大部分は今の世田谷区内である(同上五二二ページ)。
さらに安政元年(一八五四)正月にはペリーが浦賀に再渡来し、神奈川(日米和親)条約を結んだが、このために、江戸と浦賀表との間に諸役人の往来が頻繁で、品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷の四宿は共同して当分助郷を願って許可されたが、三月に米艦が退去すると、当分助郷村は人馬の触れあてを拒絶するようになったので、さらに継続して当分助郷を認めてもらいたいという願書を、道中奉行に出している。その文中に、異国船は内海は退帆したが、まだ伊豆下田港に碇泊していて、その御用による往復も少なからず、また三浦半島警備の彦根・川越・熊本・萩の諸藩が、備場への往復の家中や、荷物の輸送に多くの人馬を要するほか、異国船渡来のために、諸藩ともに国許から家来を呼びよせたり、武器を取りよせたりするので、継立の人馬はおびただしい数に上り、定助郷の村々の勤め高がかさみ、きわめて困窮しているので、この上、宿と定助郷のみで継立をしては支障も生ずるから、当分助郷を指定して、定助郷同様に人馬を提供するようにしてほしいと述べている。この願書は何度も提出したが、許可されなかったようである(『品川町史』上巻五三二ページ)。
万延元年(一八六〇)に伏見宮の倫宮が紀州家の赤坂屋敷へ入輿のときには、通行前日と当日の二日間、つづいて尾張の徳川慶勝が参府のときには、当日と前後二日の計三日間の当分助郷を願い出て許可されている。その村は宮益町などで、前にも当分助郷に指定された町村である。そのうち、品川宿または他の宿に助郷になっている村は、助郷高の残高で勤めることを指定されている。また文久元年(一八六一)十月に皇妹の和宮(かずのみや)が、将軍家茂に降嫁するために中山道を下向したとき、東海道も参向の公家衆や、御用物等がおびただしかったので、品川宿から蒲原宿まで、助郷のない箱根宿を除いて、一四ヵ宿の役人惣代として、組合宿々の取締役を命ぜられていた、品川宿の年寄忠次郎ら四名が、当分助郷を指定されるように道中奉行所に訴え出たが、あたらしく当分助郷は指定せず、加助郷に人馬を出させている。これを加助郷の当分助郷という言いかたをしている。このとき加助郷と宿および定助郷との間に、紛議が生じたことは後に述べる。
幕末になり、横浜が開港場として江戸との往復が頻繁となり、さらに尊王攘夷運動の激化などで、京都警衛の問題が生じ、東海道は諸大名・旗本などの通行がおびただしく増加し、従来の宿人馬や定助郷人馬では応じきれないほどになったので、品川宿およびその定助郷では、慶応三年(一八六七)十月に、当分助郷の指定を代官所に願い出たが、この月には将軍慶喜が大政奉還を願い出ていて、幕府としては助郷問題どころではなく、これもそのままになった(『品川町史』上巻五三六ページ)。
このようにして、品川宿の助郷には、大きな変動がなくて経過したのであるが、宿と助郷との間には、常に利害の衝突があり、紛争が生じたことは他の場合と同じであった。