宿と助郷の間の紛争のなかにも、定助郷と加助郷との利害が対立することもある。文久元年(一八六一)に和宮の下向のときに、品川宿より蒲原宿までの一四ヵ宿が当分助郷を願い出したが、新しい助郷は指定されず、品川宿では一九ヵ村の加助郷が当分助郷を命ぜられた。ところが、この当分助郷は、通常の当分助郷のように、その当日と前後の日と合わせて三日間というのではなく、十月から翌年の三月十五日までは、定助郷と同様に、助郷高に応じて勤めることになった。これは宿の歎願を道中奉行所で許可したものである。しかも期間はさらに延びて、当分助郷免除の指令があるまでということになった。
加助郷一九ヵ村のうち、江戸組九ヵ村は金銭で契約したが、在方加助郷といわれた武州橘樹郡の上作延・久地・諏訪河原・北見方・梶ケ谷・末長・久本・馬絹・下作延・下菅生の一〇ヵ村には、日々の人馬が割りあてられたので、その負担にたえかねて、文久二年六月に、加助郷の人馬を軽減するように道中奉行所に訴え出た。その歎願書のなかで、品川宿と川崎宿とを比較して、品川宿の人馬立高が多いことを述べている。すなわち、川崎宿は定助郷と加助郷の高を合わせて二万一四五〇石、品川宿も定・加の高合わせて二万〇三七三石余で、川崎宿よりは一、〇七七石余少ないから、高一〇〇石あたりの人馬の数には若干の差はあろうが、立人馬の数に差はないはずである。しかるに立人馬には大きな違いがあるとして、例を示している。それは次のとおりである。
文久元年十二月十三日詰(人足は前日に詰める)
人足四、七八〇人 高一〇〇石に二〇人の割 品川宿
同 二、三六〇人 同 一一人の割 川崎宿
差引二、四二〇人 品川宿過
同年 十二月十四日詰
人足四、七八〇人 同 二〇人の割 品川宿
同 二、六八〇人 同 一二人半の割 川崎宿
差引二、一〇〇人 品川宿過
同年 十二月十五日詰
人足四、七八〇人 同 二〇人の割 品川宿
同 二、六八〇人 同 一二人半の割 川崎宿
差引二、一〇〇人 品川宿過
同年 十二月十六日詰
人足四、七八〇人 同 二〇人の割 品川宿
同 二、一五〇人 同 一〇人の割 川崎宿
差引二、六三〇人 品川宿過
四日〆人足九、二五〇人 品川宿過触
この数字を示したあとで、次のように述べている。「四日のうち一日ぐらいは人足数が合致してもよいのに一日も合わない。品川宿から継ぎ立てた上りの荷物は、川崎宿を除いて神奈川宿へ継ぎ越すいわれはなく、川崎宿から継ぎ立てた下り荷物が、品川宿で増加するはずもない。その上、帰京の公家衆は両宿を同日に通行したのであるから、少少の違いはあっても、日々人足が二、〇〇〇人余も品川宿が多く必要としたことは、遠在愚昧の百姓には理解できない。人馬を出したくても、病身・足弱・後家・老人・村役人を除くと、人足が間にあわないので、致し方なく宿方に人足の買い揚げを依頼したので、万一欲情から買揚銭を掠め取るつもりでもあるまいが、日々品川宿のみ多くの人足を使う理由がわからない。
当年の四月中に、日光門主が上京のときの掛り人足は次のとおりである。
四月四日詰
人足三、八八〇人 馬三〇〇疋 高一〇〇石に人足二〇人馬一疋半の割 品川宿
同 一、七〇〇人 同 人足八人の割 川崎宿
差引人足二、一八〇人 馬三〇〇疋 品川宿過
右のような大触(おおぶれ)であるから、村々の人員では正人馬(実際の人馬)は間に合わず、七八分(七〇~八〇%)どおりは宿方で買い揚げて勤めるように雇賃銭を宿方へ渡したところ、翌五日の昼の八っ(午後二時ごろ)すぎになって、村々の才領の者を問屋場へ呼びよせて、今日は御発輿(はつよ)が延びたという御沙汰が只今到来したから、一同帰村するようにと、申し渡されたので、前夜渡しておいた買揚銭を返してくれと掛けあうと、もはや人足たちへ足止のために残らず渡してしまったので仕方がないが、来る八日詰のときに取計らう方法もあろうということで、詮方なく帰村した。
あとで川崎宿の加助郷の者に聞くと、四日の夕刻に御発輿延引のことを知らされたので、人足たちは同夜中または翌五日早朝に帰村したという。御発輿延引の御沙汰は、品川宿から川崎宿へ到来するのが順路であろう。それを五日八っごろに御沙汰が到来したなどという不都合な取計らいをする。そのために日数や刻限が延び、それだけに諸雑費が掛かるので難儀をするが、御役のことであるから泣く泣く我慢をしていたが、いよいよ御発輿が四月九日ということで、割り触れは次のとおりであった。
四月八日詰
人足三、八八〇人 馬三〇〇疋 高一〇〇石に人足二〇人馬一疋五分の割 品川宿
同 二、三六〇人 同二〇〇疋 同 人足一一人馬一疋の割 川崎宿
差引人足一、五二〇人 馬一〇〇疋 品川宿過
両度合計
人足七、七六〇人馬六〇〇疋 同 人足四〇人馬三疋の割 品川宿
人足四、〇六〇人馬二〇〇疋 同 人足一九一人馬一疋の割 川崎宿
差引人足三、七〇〇人 馬四〇〇疋
馬一疋を人足三人半に代えると一、四〇〇人となり、
合わせて人足五、一〇〇人 品川宿過
となる。川崎宿においても、宿と定助郷との紛争は度々あるが、品川宿では宿と定助郷の紛争がないのは、加助郷の村々へ多く人馬を負担させて、宿と定助郷とは格別の助成を得ているためではないか。
元来この一〇ヵ村は、古くは川崎宿の加助郷であったが、延享年中(享保十六年が正しいようである)に品川宿の加助郷を命ぜられたものであって、品川宿まで六里半から四里半を隔てた上に、途中に玉川(六郷川口)の渡船があるので、途中が手間どり、毎度人足役のあたる前日の昼七っ(午後四時ごろ)には詰めるので、一日の役に二夜も三夜もかかり、不馴れの荷物を府内の遠方まで継ぎ立てるのに疲れ、帰宅しても農業がはかどらず、旬(しゅん)にもおくれ、収穫が少ない。これに安政六年(一八五九)の大水害、万延元年(一八六〇)の風害で村民は疲弊し、川崎宿の助郷より負担が格別に多いのは、村役人が不正をしているからではないのかと小前の者は疑っている。
定助郷の村の人足一人については、村で二〇〇文ぐらいの賄銭(まかないせん)(補助銭)を出すが、加助郷では六五〇文ぐらいの村賄銭のほかに、宿料が一五〇文ぐらいで、諸雑費を加えれば、加助郷の一人役は定助郷の五~六人役に相当する。それゆえ、今後は加助郷の一人分は定助郷人足の五~六人にあたるようにしていただきたい。また宿方の人足買揚銭も、以前には一四八文から一七二文までであったのに復旧し、遠在加助郷へ馬を割りかけることもなかったので、これも前どおりにしていただきたい。これが加助郷の歎願であった(『品川町史』上巻五六七ページ)。
これに対して、道中奉行からは、品川宿に答弁を求めたので、宿役人惣代の問屋安之助と、定助郷六二ヵ村惣代の荏原郡峰村名主周蔵が答弁書を提出した。それによると、
一、定助郷と加助郷と平等に勤めることは当然のことで、宿方の考えでしたことではない。
一、川崎宿と比べて、人馬触高が多いというが、去年十一月二日に御印書(道中奉行の当分助郷帳)を下付されたときに、当分助郷村を呼んで継立方を相談したところ、当時は農繁期であるから定助郷で多く勤め、特別の御用のときには加助郷で触れあて次第に人数を出して、高に平均にしたいという希望を述べたので、勝手の振舞いとは存じたが遠村のことゆえ、定助郷村へ了解を求めてその希望に任せたので、平均をすれば高に対して不公平はない。川崎宿では入魂(じっこん)人足と称する相対で雇う人足を多く使うので、正人馬の触れ当ては少ないが入魂の代銭はおびただしく、それも高割りで徴収している。ただこれは日〆帳には記されないから、日〆帳での比較はできない。期間中の正人馬を高に平均すれば、定助郷が勤め過ぎで、加助郷が不足である。なお入魂人足の分は宿・助郷役人が直接に代銭で支払うので、請け払いの証拠がなくては村々が疑惑をいだくので、品川宿では正人馬を差出す仕来りである。
一、当年四月五日の日光門主御発輿についての人足は、加助郷から出人足不足につき買い揚げてくれということを、問屋場下役へ頼みこんだので、宿内でも一人で二人役・三人役を引きうけて出るほどのことで、宿内で雇うことはできないからと断わったが、ぜひにということで、余儀なく夜中所々を駈けめぐって、駕籠舁(かごかき)・日雇稼(ひやといかせ)ぎの者などを雇ってきて賃銭を渡したところ、翌日になって御延引の御沙汰があったわけで、不用流れになったとはいえ、昼夜集めておいて、その日稼ぎの者の食用などに使ったことで、賃銭を取り返すことはできないと申したのである。
一、日光御門主御発輿延引のことが、品川宿では五日昼八っ時に判明し、川崎宿では四日夕刻に知れたというが、御門主は五日に品川宿御休み、川崎宿御泊りで、品川宿では御取締りの御普請役の指示によって、五日の八っ時すぎまで人足を待たせておき、御延引が判明したので、先着の荷物を江戸御屋敷へ持帰りの人足を残して、あとは帰村させたものである。川崎宿は五日御泊りで、六日御継立であるから、五日の夕刻に止め触れにしたものであろう。翌日御継立の川崎宿を目当てにするのは以てのほかである。
一、馬を触れあてることは前になかったという件は、定助郷の村は二四、五年前までは、持馬八、九〇疋もあったが、天保の飢饉以来馬飼料そのほかの値段が高くなって、次第に困窮して馬持が減って、当時は惣馬数が二五疋ほどになった上、異国船の渡来以後、往来の継立が莫大になったので、伝馬入用のときには、もよりの増上寺御霊屋料(おたまやりょう)や寺領の村々、あるいは市中の馬持どもから高い賃銭で雇ってくるなど、種々手段をつくして継ぎ立ててきたことであって、御印書を頂いたほどの大触(おおぶれ)のときに、定助郷へだけ触れあてては、差しつかえるのは歴然のこと、加助郷一〇ヵ村は持馬が多いので、これに触れあてるのは当然で、人足だけを助郷にあてるということはないはずである。
いったい、定助郷の村々は人馬の立高が増加し、ことに九年以前の嘉永六年に異国船が渡来以後、引きつづいて横浜開港掛りの役々の往来、海岸警衛諸大名の人数交代が増して、臨時御用の人馬の数は莫大である。また万延元年十一月以来、和宮御下向のための御用人馬がおびただしく、村々は疲弊して極難(ごくなん)に陥り、そのために歎願をして当分助郷を命ぜられたのに、たまさかに御用を勤める当分助郷の者どもが、自分勝手のことを申しつのって、期間中も平均の人馬を勤めず、勤め不足の分を催促しても取りあわず、そのために定助郷の村は数字が合わないので、宿役人や助郷惣代を疑惑して人気が不穏である。勤め不足の分は、正人馬で勤め返すなり、賃銭ですませるなり仰せつけられたい。
以上が品川宿と定助郷六二ヵ村惣代の返答書であった。この返答書に添えた「和宮様御下向御用并諸往還共人馬立高書上帳」によると、文久元年十一月二日より翌二年三月十五日までの人馬立高は、
人足七万四八二六人五分 馬八、三四八疋
内訳
人足一万二五七五人 馬六、八三六疋 宿勤
人足六万二二五一人五分 馬一、五一二疋 助郷勤
であって、助郷勤めの馬一疋を人足三人半として換算すると、助郷勤めの人足六万七五四三人五分となり、助郷高二万〇三七三石七斗一升一合で割れば、高一〇〇石に人足三三一人五分二厘となる。このうち当分助郷三、〇三九石分は人足一万〇〇七四人九分となる。ところが、在方一〇ヵ村で正人馬で勤めたのは五、二八三人、江戸方九ヵ村が雇い勤めをしたのは一、七五四人五分、合わせて人足七、〇三七人五分となり、差引きして、人足三、〇三七人四分が不足で、この分を定助郷へ渡さなければならない。一人三〇〇文とすれば銭九一一貫二一九文になる。このうち江戸方九ヵ村分の人足七五一人八分、その賃銭二二五貫五三八文はすでに支払いずみであるが、在方一〇ヵ村すなわち橘樹郡の久本・末長・下作延・上作延・梶ケ谷・馬衣・北見方・諏訪河原・久地・下菅生の諸村分の人足二、二八五人六分、銭にして六八五貫六七七文は滞納している(『品川町史』上巻五七八ページ)。
この結末は不明であるが、宿と助郷とでは、相互に言い分があり、しばしば紛争となったことが知られる。また前記の数をみても明らかなように、四ヵ月半の間に、宿助郷では人足に直して一〇万四〇〇〇余人を提供しなければならず、助郷高三〇〇石の村でも一、〇〇〇人近くの人足を出したのは大きな負担であった。