横浜が安政六年(一八五九)に開港してから、貿易は年ごとに隆盛となり、生糸・茶・油・銅・雑穀・海草類を輸出して、呉呂服(ごろふく)・キャラコ・金巾(かねきん)・更紗(さらさ)・麻布等を多く輸入していたが、日常生活に直接に関係するものが主要輸出品である上に、生産地から開港場に輸送されたので、これまでの問屋や組合を通じての配給組織が乱れて、物価は日ましに騰貴して、物によっては三倍から五倍にもなった。また金銀貨の引換えが渋滞し、銭相場は上がって、上下の困窮は前代未聞となった。
とくに横浜に近く、消費都市である江戸に住む武士や庶民がもっとも打撃を受けて、府内の場末には三度の食事も満足にとれない町家もあれば、近在には飯米を一日一回買って暮らす百姓も多数に上った。外国貿易によって利益を受けるのは一部の人と、関税や居留地借地料等の収入のあった幕府ぐらいであったから、貿易開始を怨み、外人を排斥し、さらに幕府当局者を攻撃する機運が次第に強まってきた。
外人殺傷事件が相次いだのも、外人に対する反感や幕政に対する不平とが結びつき、攘夷思想を激化させた結果であった。文久元年(一八六一)五月には、品川に近い芝高輪の東禅寺にあったイギリス公使館が襲撃され、書記官オリファントと、長崎領事モリソンとが傷けられた。これは公使のオールコックが、長崎から小倉に陸行し、下関から船で兵庫に着いたので、陸路を大坂・奈良・桑名を経て東海道を下ってきたことに対して、神州の霊域を汚したものとして憤慨した水戸浪士有賀半弥ら一四人の行為であった。オールコックは前にも富士登山を試みるなど、幕府の制止もきかず、条約上の特権を理由にして、自由な行動をとっていたのである。
その年の十二月には、伊豆諸島防備と小笠原島開拓のために、外国奉行水野忠徳らが咸臨(かんりん)丸で品川を出帆し、翌二年の元旦には、攘夷運動などによって、新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市を五ヵ年間延期することをヨーロッパ諸国と交渉するために、勘定奉行兼外国奉行竹内保徳らの一行が、イギリスの軍艦オージン号に乗って品川沖を出帆し、幕末外交史上に重要なロンドン覚書を締結して、同年十二月に帰国した。
この文久二年六月には、島津久光が勅使大原重徳を奉じて江戸に下り、重徳は龍ノ口の伝奏屋敷に入り、久光は高輪の鹿児島藩邸に入った。そして幕府に対して、一橋慶喜を将軍輔佐とし、福井藩主松平慶永(春嶽)を大老として幕政に参加させるべき旨の勅諚を伝え、七月になって、幕府は慶喜を将軍後見職に、慶永を政事総裁職に任じた。久光は帰洛のために、八月二十一日には高輪の藩邸を出発し、品川宿・川崎宿を通って、神奈川宿に行く途中の生麦(なまむぎ)村(横浜市鶴見区)で、川崎大師に向かうイギリス人と出遭って、いわゆる生麦事件を生じたのである。
このような社会情勢の大きな変動は、品川宿にも敏感に伝わってきていたが、もっと直接的には、横浜開港にともなって、外国人のために遊郭を設けることになり、後述するように品川宿の岩槻(いわつき)屋がその中心となって、岩亀(がんき)楼という最も大きな遊女屋をつくるなど、宿内にも変革の波が押しよせていた。さらに宿・助郷にとって大きな問題は、文久二年閏八月の参勤交代制の変更であった。すなわち諸大名は三年に一度の参勤とし、滞府期間は溜間詰(たまりのまづめ)および溜間詰格の者は一年、その他はおよそ一〇〇日とし、かつ妻子を国許に帰すことを許したのである。
これは幕府権力の大きな衰退を示したが、これによって諸大名の妻子は相ついで国許に帰り、諸街道は連日のように大通行が続き、多数の人馬が往来した。江戸藩邸詰の藩士や仲間(ちゅうげん)・小者の数も激減し、藩邸に雇われていた奉公人で職を失うものも多く、江戸市内は不景気の風に包まれた。この二年の十二月十五日には、一橋慶喜が江戸を発して上洛の途につき、三年の二月十三日には将軍家茂が江戸城を発して、三、〇〇〇の将兵を率いて上京した。将軍の上洛は家光以来のことであった。これに関連して幕府役人や諸大名の通行が激増して、宿場も助郷もその負担に苦しんだ。将軍は六月の帰府には大坂から海路江戸に向かい、翌元治元年(一八六四)の再度の上洛は往復とも海上を選んだのも、陸上交通の困難さなどが一因であった。
しかし、元治元年には長州征伐が始まり、翌慶応元年の第二回の長州征伐にあたっては、将軍家茂も五月に江戸を発して大坂に赴き、自ら軍を督したので、またまた宿・助郷の人馬負担は過重なものとなった。このような大部隊の行軍などは、本来は宿駅制度で処理できるものではなかった。宿ごとに何百人・何十疋という人馬を用意して、二里か三里行っては荷物の積みかえをしなければならない制度では、急速な行軍をすることはできず、一方、宿と助郷という限られた地域の者にだけ大きな犠牲をしいることになったのである。
こうした負担に対する不満は、幕府の政策に対して向けられるべきものであったが、宿と助郷との対立紛争という形であらわれてくることが多かった。品川では元治二年すなわち慶応元年(一八六五)の二月に騒動が生じた。助郷では割りあてられる多数の人馬に応じきれないので、賃銭雇いの人馬を頼むことが多くなったが、一人で三人分・五人分を請け負う者も生じた。ところが文久以来、助郷村にかかる人馬の数が激増したので、助郷村の者は、出人足が問屋場の下役などと結託して、人馬数を多くして、不当の賃銭を村方から徴収して着服したものと推断し、ついに戸越村と小山村では、下手人(げしゅにん)(罪を負う者)を一人ずつこしらえておいて、問屋の下役どもを暗殺するために竹槍(たけやり)などを持って集合しているという噂が立って、仲介者が出て一時収まったが、大井村の小前の者たちは村役人の制止もきかず、三月になって、問屋どもへ直接に談判して、不正を働いた下役人を殺害しようと騒ぎ立てた。
この事件は、町屋村と市場村の名主が調停に入り、四月になって宿と助郷との間に内済(ないさい)議定書が取りかわされた(『品川町史』上巻五八五ページ)。
この議定書(資一八五号)で決められた箇条は次のとおりである。
一、人馬触れあては、問屋・年寄・助郷惣代が立会って、先触(さきぶれ)の人馬の高を見積もった上、当節がら臨時に先触もない通行も少なくないから、それらをも十分に考慮して触を出し、できるだけ不用の人馬のないように、省略を第一に心得ること。
一、人馬の詰(つめ)時刻と着到(ちゃくとう)(到着)の関係は、夕刻七っ時(四時)詰に夜五っ時(八時)までに、暮(くれ)六っ時(六時)詰に暁七っ時(午前四時)までに、明六っ時(六時)詰は朝五っ半時(九時)までには着到し、その刻限におくれた分は未進として、賃銭を取立てることはもとより、その者をとめておいて遅刻の理由をただして、御取締りを受けるように取計らう。
一、荷物の割りふりは、有賃・無賃の差別なく、宿人足を使い切った上で、助郷の村々の着到順に割りあて、人足どもは荷物の形や貫目の軽重について選択をしないように、きびしく申し聞かせておき、すべて自儘(じまま)の仕方はさせないこと。
一、帳付や人足指その他の者どもは、たとえどのようなことがあっても、助郷村の出人足に対して相対(あいたい)で雇請(やというけ)をしないように厳重に取締り、万一、一人・一疋でも不正のことがあれば、退役・退身を申付けること。
一、助郷惣代は、近年御用多端で、従来の人数では手がまわりかねるので、自然取締りも行届かないから、以後は六触組から村役人の重立った者二人ずつを惣代にして、勤務目と休日の日割を立てて詰め合わせ、諸勘定の取締りに念を入れること。
一、助郷人馬の割りあてを知らせる触状(ふれじょう)持は、一触に持夫一人ずつ出して、即刻持ちまわらせ、なおざりの仕方がないようにする。また村継(むらつぎ)(村から村へ伝える法)の場合には、村ごとに授受の時刻を記して順送りにし、最後の村から問屋場へ返却すること。
一、日〆帳は南北の問屋場で交代に勤めるので、その休番三日のうちに記入し、荷物の形や割りふった人足の名前を記し、宿役人と助郷惣代が立会って調印しておくこと。
一、人馬の賃銭は、使用者から出発のときに支払いがあれば、その時々に出人馬へ渡し、跡払(あとばらい)の分は請取り次第に渡して、不正の取計らいをしないこと。
この紛争のもとは、助郷村から規定分の正人馬を出さず、一人の人足が二人役・三人役を引きうけて問屋場に行き、帳村や人足指に金を渡して人足を雇うことから、出人足と帳付・人足指が結託して不正を行なうことが多かったからである。