助郷の村が人馬を割りあてられるのは、その助郷高に比例する。したがって、一、六三四石の大井村に比べれば、三一二石の下大崎村は五分の一の負担となる。しかし、定助郷では、助郷高は村高に近いものであるから、個々の村民にとっては、ほぼ同じ負担となる。定助郷中でも実際に人馬を出すことができないで、雇銭を出しているところは、その費用は村入用の一部となり、村民の持高に比例して負担するのが常である。正人馬を出す村でも、どの家でも馬や人足を出せるわけではないから、人馬を出した家と出さない家、あるいは多く出した家と少なく出した家とが出てくる。また村のなかにも、多く出した村と少なく出した村とがある。
村相互の間の多少については、問屋場または助郷会所において、日ごとに平均帳をつくって、出人馬の少なかった村からは、それに相応する賃銭を出し、多かった村には、その分を支払って清算をする。村のなかの不均衡は、村内で同じように処理をし、持高に応じて負担をするようにする。もし、出人馬の賃銭がその労力に相当していれば、その処理もたやすいが、賃銭は多くの場合に労力に対しては低廉である。
元来、宿および助郷で出す人馬は、幕府公用またはそれに準ずるものの運送のためであるから、御朱印または証文によるものは無賃であり、他は御定賃銭である。無賃のものは総体の一〇%内外であって、その多くは宿の負担であるから、助郷人馬の大部分は御定賃銭を支払われたものと考えられる。ところが御定賃銭は大体はその宿から次の宿までの距離に比例して定められている。助郷の村から宿まではいくら遠くとも何らの給与がない。品川宿の助郷も二里・三里、あるいは五里・六里に達するものもあるが、その往復については考慮されず、品川宿から江戸までは二里、川崎宿までは二里半の賃銭を支払われるだけである。
助郷人馬は、村々の宰領が引きつれて、用のある日の前夜までには問屋場に到着して、帳面に人名簿を記帳しておかなければならない。その当日は、人足ならば長持や駕籠をかつぎ、馬ならば荷物か人を乗せて次宿まで行く。品川から江戸へ行くのは、日本橋までではなく、使用者の屋敷まで行くのであるから、二里とは限らない。ときには本所や深川までも行って、さらに居村まで引き返すので、ときには二日掛り・三日掛りとなることもあるが、与えられる賃銭は御定賃銭である。弘化元年(一八四四)に道中奉行が定めた人足の賃銭は、江戸までが七一文、川崎までが八四文である(『東海道宿村大概帳』)。ところが宿で雇い上げる人足賃は、一四八文から一七二文ぐらいであったから(『品川町史』上巻五七一ページ)、御定賃銭はその約半分である。
そこで、村としては、正人馬に出る者に対して何らかの補給をする必要が生じ、それが村入用のなかで大きな比重を占めるようになった。それを足賄(たしまかない)銭などという。これは宿の人馬でも同様であるが、助郷人馬は宿との往来があるし、宿人馬のように帰り馬などと称する稼ぎもないから、その補給も大きくなる。そのために正人馬を出すよりは、賃銭を出して、宿で人馬を買い揚げてもらうことを望む村も出てきたのである。人馬の買い揚げがいつから始まったかわからないが、すでに万治元年(一六五八)に、幕府が宿役人と助馬村の役人から誓紙を徴したときに、金子で馬の請負を依頼しても、引きうけてはいけないという一条を入れているから、そのころにはすでに広く行なわれていたと思われる。
このほかに、助郷村が人足の請負人と契約をして、一年間にいくらという金額を支払って請け負わせる方法もあった。これもいつから始まったかわからないが、元禄・宝永(一七〇〇年前後)ごろには東海道の諸宿では、そういう請負人がいて、何人分と人数をきめて請け負うことが行なわれていた。請負人は人足部屋を持ち、何人かの者を置いておくほかに、雲助などと称される、浮浪者などを雇うこともあった。人馬の請負制度は、東海道が他の街道より多く行なわれていた。