助郷村の農民は、天下の農民のうちでも最も重い負担に悩まされたと評されているとおり、助郷村は宿駅制度によって何らの恩恵を受けなかった。宿場は公用以外の旅行者によって利益を受けることがあり、ことに品川宿のように多数の食売女を抱えていたところでは、それに関連した職業の利益もあったが、助郷村にはそうした余徳がなかったのである。
ことに幕末の大通行による過重な人馬負担は、村の財政をも破綻に瀕せしめたのである。それは宿駅制度の矛盾が表面化したものといわなければならない。そうした状況をよく示しているのが、文久三年(一八六三)十一月に、品川・川崎・神奈川の三宿役人と、その付属助郷惣代から道中奉行に出した願書である。その大要は次のとおりである(『品川町史』上巻五五八ページ)。
品川・川崎・神奈川三宿の助郷は、去る嘉永六年・安政元年両度の異国船渡来の節、横浜表において応接の諸役人をはじめ、海岸警衛の諸家の軍勢が往復に要する人馬の立数(たてかず)がおびただしいため、その御用中は当分助郷を命ぜられた。その後ひきつづいて神奈川開港について、掛りの役人や海防固めの諸家の人数が次第に増加し、さらに軍艦方操練方の者が大勢交代するので、日々絶え間もない通行であるが、当分助郷は期限が切れて免除されたので、定助郷だけで勤めている。
宿方はペリーと応接中から引きつづいて開港以後、御用休泊者の足銭(たしせん)(宿泊料や休息料を少ししか払わないために、その旅籠屋や茶店に補助する金)が莫大な額となり、勤続する方法もなく、宿も助郷も困窮をきわめ、才覚手段もつき果てて、種々相談をしたところ、貿易御用のことは、三宿とその助郷にだけ掛かるべきものでもないから、神奈川・横浜の御用往復や武蔵・相模の海防固めの諸家軍勢の交代の人馬や、宿方の休泊、また水夫・人足とともに、武蔵・相模両国の二九郡の高割に命ぜられたいと、一昨文久元年四月に願い出したが、取調べ中は帰村を命ぜられた。
遠からず御憐愍の御沙汰があるものと、宿も助郷も日夜艱苦を忍んで御役大切に勤続しているが、同年の一年間に横浜に継ぎ立てた分は、一宿あての人馬を平均して人足に直せば、四万人余が定助郷の勤め高になっている。それに準じて宿々の休泊入用の足銭がおびただしく、宿・助郷とも貧苦がいや増すので、種々の論が生じて人気も不穏である、よって郡中高割を取調べ中、急場を凌ぐため、当分助郷を定助郷同様に勤仕させることを、文久二年六月に追願したが、今もって御沙汰がない。
定助郷立の人馬が増加したのは、一昨文久元年の和宮御下向御用をはじめ、去る二年の参勤制度の変革で、諸大名家族の帰国、引きつづいて将軍御上洛で、当日および前後の警衛・供奉(ぐぶ)の諸家方の継ぎ立てで、助郷の人馬は昼夜使役されて、帰村して休息する間もなく、宿に詰め切りで、莫大な人馬の立高となり、村々の在来の人馬では足りず、遠近手明きの村々から雇い立てたので、経費も多く掛り、その上臨時の御通行で宿場で雇った人馬賃銭の高割りの分や、多くの人馬を宿に集めておいて不用になった分など田畑の収入がまったくなくなるほどに力を注いでも足りない。
日夜往還役に寸暇もないために、農季を失い、作物の仕付は旬(しゅん)おくれになり、年中の食料の雑穀や野菜まで欠乏するほどで、ついには飢寒も凌げず、どのような異変が生ずるかも計りがたい。人馬の賃銭を支出しておいた分も、村方に割りあてて取り立てることができず、宿役人はもとより助郷惣代も勤続できかね、もはや今年かぎりで退役・退身すべき覚悟をきめている。
わけても宿方では、助郷の出人馬が差しつかえては一日も宿役が勤まらない。先の横浜御用にかかる人馬の分は、昨年中の人馬を人足に直すと七万人余の立高になり、当年の七月から十月まで四ヵ月を調べたところ一ヵ宿で人足二万八〇〇〇人・馬一、二〇〇疋余の立高である。当節は軍艦方操練方の交代のほか、別手組・持小筒組など、一組が六、七〇人ほどずつ、一五日ごとに上り下りの交代で、いずれも無賃人馬の継立が三、四組、月々数度の往復があり、下り方は川崎宿泊り・品川宿昼休みが定式になっていて、その休泊の足銭は一年に積もれば二〇〇両から三〇〇両にも及ぶ。
助郷方は、この四ヵ月の割合では、人足に直して一二、三万人に及び、まったく外の宿々にはない過重の役である。中古は助郷人馬は一ヵ年の惣高五、六万人ほどであったが、近年は宿並(しゅくなみ)に一四、五万人ぐらいになっているが、当三ヵ宿は、その宿並のほかに、大部分が無賃の継立が十万人余に及ぶので、この上は小高の村を当分助郷に組み込まれても、とても勤続することはできない。
私どもは、たとえどのようなお咎めを蒙っても、もはや往還御用は今年かぎりで休役をお願いするよりほかはない。当街道の宿々助郷が困窮に陥っているなかにも、当三ヵ宿と助郷の疲弊は筆紙を以ては申しつくせない。よって格段の制度を立てられるまで、この危急を救助されるために、横浜・神奈川のすべて貿易筋・警衛筋の御用通行も、武・相両国の御固めの諸家方の交代人馬とも、当三ヵ宿の継合(つぎあい)は全部免除されたい。宿方も同様に御用休泊(ほとんど無銭の休泊)は相対旅籠銭払いにさたれい。時節柄宿・助郷ともに御用の差しつかえないように勤めたいが、事実相続ができがたいので、過役人馬継と御用休泊とを免除されたい。
このように訴え出ている。まことに悲痛な叫びであって、不法な人馬の使役や横暴な旗本たちの無銭の休泊の状態をうかがうことができる。宿駅制度からみても、もはや幕府の組織が崩壊に近づいたことが明らかであった。
さらに翌元治元年(一八六四)になって長州征伐の軍が起こり、将軍進発のことが伝えられると、同年八月二十八日に、品川より大津までの東海道五十三宿は同盟を結び、品川宿の問屋等を惣代として、道中奉行に訴え出た。その要旨は次のとおりである(『品川町史』上巻六五三ページ)。
近々東海道陸地御進発を仰せ出されたので、ただいま出府して歎願中の宿・助郷役人たちが集まって相談をしたが、いずれも途方にくれ、二百年来の御恩沢に浴した国民であるから、死力をつくして粉骨すべきはもちろんであるが、人数も精力も際限のあることで、御上洛の時とちがって、軍用の器械・道具類、供奉の諸役人をはじめ、大名方の人数の出発の日割り等はいかがであるか、深く心痛している。これまで両度の御上洛の経費は、宿々拝借金・宿助郷御手当金や人馬賃五倍増御前渡金などの手当をして頂いたので、宿々は御休泊その外の雑用に、助郷方は在来の人馬で不足の分は街道稼ぎの人足や遠近の手明きの村々から雇い立てて継立をすましたが、当節になっては、宿・助郷とも年来積み重なった諸借財や、御上洛のさいの支払い残金の整理ができず、金銭の融通はまったくなく、諸勘定ともそのままに据えおきにしている状態である。
先般の御上洛人馬の経費は、後のことを考えず、御国恩に報いるときと、一途に努力をしてお役をすませたことであるから、今さら工夫(くふう)も立たず、とてもこれまでのようにはならない。元来、助郷村々には不相当な人馬があてられたので、老幼不馴れの者まで無理に出したために、余分の費用がかかり、しかも昼夜交代すべき人馬もないために、数日を経ずして潰れ人馬がでることは目に見えていること故、今般の重大な御用に当たっては、宿・助郷役人どもは、その宿場を逃げ去るよりほか仕方がない。
宿・助郷役人どもが一同集まって再三熟考した結果は、先般御上洛のときの継立人馬より一段と数を減少して頂くか、あるいは別格の方法を講じて頂くよりほかないので、無事に継立ができるように、特別の御配慮を願いたい、というのであった。
さらに九月になって、組合宿取締役(東海道五十三宿を一〇宿前後にわけて組合をつくらせ、取締役を置いたもので、品川より箱根までの一〇宿の取締役は品川と保土ケ谷の名主が勤めていた)であった南品川宿年寄山本伴蔵は、継立の実情を述べて、助郷の人足は高一〇〇石につき五、六人というのが古いきまりであるというが、品川宿は定助郷一万七〇〇〇石、加助郷三、〇〇〇石、合わせて二万石であるから、一〇〇石に五人の割りでは、総体一、〇〇〇人というのが限度である。ところが両度の御上洛の時には、人足二、三千人、馬二、三百疋という日もあって、それは遠近の手明きの村々から人馬を雇い立て、道中往還稼ぎの人足どもを高い賃銭で雇って御用をすませたのであるが、当節になっては人馬を雇う金銭もなく、里数の離れた宿では、翌日出代わりの人馬もなく、ことに馬は宿・助郷ともにごくごく払底をしている。
また宿役人たちは、昼夜引きつづいての御用処理の手はずに寸暇も争い、日々数百通の先触(さきぶれ)の写し取り、人馬高の積算、助郷村の遠い所へは前々日、近村へは前日に割り触れ、前日到着した御荷物は目方の軽重をみて人馬の割り振りを考え、休泊の賄方、御出発後の順ぐりの手はず、その他お出迎えなど、左右を顧るひまもなく、寝食を忘れて昼夜立ち通し、ついには身心ともに疲れ果てて逃げ隠れするよりほかない。横暴な武士たちに宿役人が打擲(ちょうちゃく)され、あるいは周章狼狽して持場を逃げ散っては、集まった人馬もどうすることもできず、人馬もまたみな散乱してしまう、と述べている(『品川町史』上巻六五六ページ)。そしてまた、宿々に対して貧困宿には五〇〇両、並宿には三〇〇両の拝借と人馬継立金の前渡しとを求めている。
これに対して、同年十月、幕府では五〇〇石以上の蔵米取・知行取には馬を与えず、旅中において病人馬のために雇ったときは、元賃銭の五倍を払うことなどを触れ出して、宿・助郷の歎願に答えようとしている(「利田家文書」)。しかし、使用人馬の制限や賃銭の増加だけでは対応できないほどに矛盾が拡大していて、やがて幕府も倒れ、宿駅制度も廃止されることになるのである。