荷物の重量

682 ~ 685

人馬が運ぶ荷物の重量には制限があった。制限がなければ、賃銭の公定もできないわけである。はじめ慶長六年(一六〇一)正月に、大久保長安・彦坂元成・伊奈忠次らの連名で出した「御伝馬之定」では、荷積は一駄に三〇貫(一一二・五キロ)までとし、秤(はかり)で計量すべきことを付け加えている。ところが翌七年六月に忠次らが出した定書では、伝馬荷物は三二貫目(一二〇キロ)、駄賃荷は四〇貫目(一五〇キロ)に決めるとしている。伝馬荷は朱印状による無賃のもので、賃銭をとるのと区別をしている。

 駄賃荷四〇貫は、慶長十六年(一六一一)の規定でもそのままであり、さらに元和二年(一六一六)十一月の規定では御伝馬荷も四〇貫となり、これがそれから引きつづいての目方となった。万治元年(一六五八)の規定では、四〇貫より重い荷は秤にかけて重い分を除くことを荷主にことわり、どうしても承知をしなければ馬を出すな、と命じている。このときに人足一人の荷の重さは五貫目(一八・七五キロ)までとし、超過した分は荷主にことわって除くことにし、もし承知をしなければ人足を出さないことを命じた。

 四〇貫の荷を積んだ馬を本馬といい、その賃銭が人馬賃銭の基準となったのである。本馬に対して、人が乗って荷をつけない馬を軽尻(からじり)馬という。明暦元年(一六五五)の規定に、「荷物なくして乗らしめば」として、その賃銭を定めている。軽尻馬というようになったのは、もっと後になってのことであるが、このときより、荷なしに乗った場合の賃銭がかならず決められていて、本馬・軽尻馬・人足という三種の賃銭が公定されることになったのである。この三種類の人馬の使い方にも、細かい規定があったので簡単にふれておこう。

一、本馬 四〇貫までの荷物をつけたもの。

一、乗懸(乗掛)馬 人が乗って荷物を付けたもの。人が乗るためには明荷(あけに)という葛籠(つづら)を二個、馬の背の両側に付け、その上に蒲団(ふとん)を敷いて乗る。その荷を乗懸下(のりかけした)または乗尻(のりじり)という。慶長七年(一六〇二)の幕府の奉行衆が保土ケ谷・藤川・御嵩などの、東海道や中山道の諸宿に下した駄賃定書によれば、乗尻一人は一八貫目に定める、ということがあって、人のほかに一八貫目(六七・五キロ)までの荷物を付けることを許しているが、天和二年(一六八二)に二〇貫目までよいことになった。ところが、そのほか蒲団・跡付・中敷は二〇貫のうちに含まれるか否かという疑問が生じた。正徳三年(一七一三)に道中奉行が伝馬町と品川宿に問い合わせたところ、伝馬町では乗掛下二〇貫のほかに、蒲団・跡付などは馬方と相談して付けると答え、品川宿では跡付・中敷・蒲団などは二〇貫のうちに含まれると答え、取扱いが違っていた。

 そこで両者が相談の上、二〇貫目のほかに蒲団・跡付・中敷・小付(こづけ)など一切で、三、四貫目までは用捨し、五貫目になれば断わることとし、軽尻の荷物は五貫目のほかに、跡付・中付・小付等一式で二、三貫までにすることにして、道中奉行に願い出て、同年九月に願いどおり許可された(『御伝馬方旧記』六)。これはあとまで規準となり、文政五年(一八二二)の道中奉行所の通達でも、蒲団・中敷・小付などで三、四貫まで増すのは差しつかえないことになっていた(『五街道取締書物類寄』五)。合わせて四〇貫目ぐらいということである。乗懸の駄賃は本馬と同じである。

一、軽尻(からじり)馬 荷なしの馬に人が乗ったもので、空尻とも書く。人のほかに五貫目までの荷物を付けることは許されていたが、前述のように正徳三年に、そのほかに蒲団・中敷・小付等で二、三貫目までの増分は認められた。人が乗らない場合は二〇貫までの荷物は同様に軽尻といった。人が乗ったのを乗軽尻、荷物だけのを荷軽尻をいう。また「あぶ付」というのも軽尻同様であるが、これは鐙付(あぶみつけ)の略語であった。軽尻の賃銭は本馬賃銭の三分の二にあたる。

一、人足 一人持の荷物は五貫目で、これを超えれば目方に応じて賃銭を払わなければならない。長持は一棹(さお)が三〇貫目を限度として、人足六人がかりとし、それより軽ければ人数を減少することが、寛文六年(一六六六)の条目以来くり返されている。そのほか、乗物一挺には人足六人、山乗物一挺が人足四人、山駕籠(かご)が三人がかり、あをり駕籠が二人、具足は一人持などの規定がある(『五街道取締書物類寄』五)。人足一人の賃銭は本馬一疋の駄賃の半分であるが、貫目が超過すれば、それに応じた賃銭をとる。たとえば六貫目の荷物は一人二分の賃銭となる。

 こうした規定があっても、人馬の使用者はできるだけ重い荷を運ばせようとする。すでに慶長六年以来、荷物は秤で計量すべきことを定めているが、すべての荷を計量することは困難であるし、また、制限を超えた荷物は取り除くように命じているが、人馬の使役者は幕府の公用旅行の大名や旗本であり、あるいはその家臣であって、宿役人などがそれに対抗できるものではなかった。