幕府では宝永四年(一七〇七)五月に、東海道・中山道・日光道中の幕領の宿々に宿手代を置き、宿駅の業務を管理させたが、十分な効果をあげることができず、正徳二年(一七一二)に廃止し、かわりに道中奉行に与力・同心を預けたことは前に述べたとおりであるが(六〇四ページ)、この改革は新井白石の建議によるもので、この年には、幕府は五街道の各宿に対して、街道別に条目を定めて通達し、また宿・助郷の人馬の使用者である大名・旗本にも、不法な使役をしないように厳重に注意をした。
それとともに、大名・旗本が過貫目の荷物を運搬させて、宿・助郷の人馬を苦しめることが多かったのに鑑みて、東海道の品川・駿府・草津、中山道の板橋・洗馬(せば)の五ヵ宿に貫目改所(かんめあらためじょ)を設けた。
品川は東海道の首駅で、もっとも多くの荷物を送り出したところ、駿府は幕府の直轄地であって、城代・町奉行等が駐在していたので、江戸との公用の交通が多いところであった。草津は東海道と中山道の合流するところであるから、京都・大坂から来る荷物も、中山道から継いでくる荷物もここを通るから、ここを抑えれば上方・西国・北陸からの荷物はすべて貫目を計ることができる。板橋は中山道の出発地であり、洗馬は中山道と北国脇街道が合するところである。
公用旅行者の出発地は決っているし、参勤交代の大名にしても脇道を通ることはできないから、この五宿に貫目改所があることによって、東海道と中山道を通る荷物はほとんど計量することができた。幕府は貫目改所の費用として、東海道の三宿には金六五両ずつ、中山道の両宿には五〇両ずつ年々下付したが、これは乾字金で、質はよかったが、慶長金の目方の半分のものであったので、正徳四年に慶長金と同質同量の正徳金、享保三年に享保金が鋳造されたので、享保四年(一七一九)から金額は半減され、東海道の三宿は三二両二分、中山道の二宿は二五両となった。これは実質的には正徳二年の下付金とかわらないが、この後の貨幣の悪化にも拘わらず、そのまま据えおかれたのである。
寛保三年(一七四三)には、日光道中の千住・宇都宮の両宿に貫目改所が設置され、中山道の改所の格で、入用金二五両ずつ下付になった。この貫目改所の入用金は後に五%を減じたが、文政五年(一八二二)に旧に復し、品川宿は三二両二分となった。また同五年には、甲州道中の内藤新宿と甲府柳町に設けられ、手当として一五両ずつ下付され、天保九年(一八三八)には中山道の追分宿に置かれ(実施は翌年から)、二五両下付された。これによって五街道の出発地や接続地にはすべて設置されたことになり、追分宿は北国街道との分岐点であったから、主要道路を通る荷物はすべて計量することができるようになったわけである。これらの改所を通らない荷物は、幕府の公用や参勤交代には関係のないものといえる。
貫目改所へは、幕領では支配代官所、私領では領主から役人を出張させていた。草津宿では膳所(ぜぜ)藩、洗馬宿へは松本藩、宇都宮宿へは宇都宮藩から出役していた。江戸出口の四宿は幕領であったから、関東郡代より下役を出していたが、さらに寛政元年(一七八九)に伊奈忠尊の勤役中に、品川宿貫目改所へ手付・手代のうち一人を出して、荷物の貫目を改めさせた。しかし、その後、住来荷物に過貫目のものがなくなったという理由で、代官の家来の出役を中止した(『品川町史』上巻五〇〇ページ)。寛政元年は、松平定信の老中勤役中で、諸街道の人馬使用について、大名などへも注意を促していたが、貫目改所の権限の強化を計ったのである。それが廃止されてから、再び旅行者が過貫目の荷物をつけさせ、ことに東海道では、それを改めようとしてもそれに応じず、宿方の者はその権威に恐れて、そのまま継ぎ立て、あるいは江戸雇の人馬で品川宿を付け越して宿々で継ぎ立てたように帳面に記入させるものもあり、通し日雇の者が不法に及ぶなど、宿方の困却がはなはだしいので、文政四年(一八二一)になって、品川宿貫目改所へ、支配代官所の手付・手代のうちから一人をさし出し、御用往来の荷物をはじめ、会符(えふ)荷物や諸家の荷物の目方を改めさせることにした(同上)。これを貫目改所出役と呼んでいる。この定詰(じょうづめ)役人の監理下に、宿役人や人馬指などが荷物を計量したのである。